緑地帯 天瀬裕康 原爆文学いま一度②
24年8月14日
原爆関連の文士の中で、広島において知名度の高いのは峠三吉(1917~53年)だろう。生まれは大阪だが主たる活躍の場は広島であり、多くの友人や支援者に囲まれていた。
峠は幼少期から胸部が弱かったものの、大手町尋常高等小で担任になった作家の若杉慧は、音楽家にすれば成功するかも、と書き残している。峠は、絵や俳句短歌もすぐれていた。広島市翠町(現南区)の自宅で被爆後、原爆詩人になっていくが、それには時間のずれがある。戦後すぐ取り組んだのは、音楽や美術鑑賞などの文化行事で、46年には広島青年文化連盟委員長になっている。絵の仲間には四国五郎、多面的な芸術家の友人には浜本武一さんがいる。
好村冨士彦さんは中学時代は数学が抜群で広島大理学部へ進んだが、肺結核で西条の国立広島療養所に入院。ここで峠の「ちちをかえせ…」で始まる「序」を含む「原爆詩集」の成立に立ち会い、物理学をやめ早稲田大ドイツ文学科に入り直す。「広島の文学資料保全をすすめる会」を設立し、後に「広島文学資料保全の会」と改称した。私が入会したのはそれ以後で、現在は土屋時子代表と池田正彦事務局長たちが引き継ぐ。
私は「峠三吉バラエティー帖」(2012年)を発刊したが、最も多くの峠関係書を出版したのは、詩人の増岡敏和さんだろう。生き方の違いから、相反する人たちもいないではないが、峠の名前を広げる役には立ったはずである。(作家・詩人=広島市)
(2024年8月14日朝刊掲載)
峠は幼少期から胸部が弱かったものの、大手町尋常高等小で担任になった作家の若杉慧は、音楽家にすれば成功するかも、と書き残している。峠は、絵や俳句短歌もすぐれていた。広島市翠町(現南区)の自宅で被爆後、原爆詩人になっていくが、それには時間のずれがある。戦後すぐ取り組んだのは、音楽や美術鑑賞などの文化行事で、46年には広島青年文化連盟委員長になっている。絵の仲間には四国五郎、多面的な芸術家の友人には浜本武一さんがいる。
好村冨士彦さんは中学時代は数学が抜群で広島大理学部へ進んだが、肺結核で西条の国立広島療養所に入院。ここで峠の「ちちをかえせ…」で始まる「序」を含む「原爆詩集」の成立に立ち会い、物理学をやめ早稲田大ドイツ文学科に入り直す。「広島の文学資料保全をすすめる会」を設立し、後に「広島文学資料保全の会」と改称した。私が入会したのはそれ以後で、現在は土屋時子代表と池田正彦事務局長たちが引き継ぐ。
私は「峠三吉バラエティー帖」(2012年)を発刊したが、最も多くの峠関係書を出版したのは、詩人の増岡敏和さんだろう。生き方の違いから、相反する人たちもいないではないが、峠の名前を広げる役には立ったはずである。(作家・詩人=広島市)
(2024年8月14日朝刊掲載)