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連載・特集

芸備線と戦争 <中> 被爆者救護

やけどの人 汽車で続々

 原子爆弾が広島市に投下された1945年8月6日、三次高等女学校(現三次高)1年だった白部素子さん(91)=庄原市中本町=は夕方、備後十日市駅(現三次駅)のホームで帰りの汽車を待っていた。

 ただ、いつもとは様子が違った。ホームに止まった上り列車から、全身にやけどを負った人たちが次々と降りてきたのだ。「あなたも手伝って」。国防婦人会の女性たちにそうせかされ、近くの学校の校舎や体育館まで付き添った。

学校が臨時病棟

 気づくと夜が明けていた。白部さんは7日、地元の山内西村(現庄原市山内町)に帰った。そこでも、臨時病棟になった山内西国民学校(現山内小)で看護に当たった。「庄原市の歴史」などによると、9日午後5時ごろ、被爆者約280人を乗せた汽車が芸備線山ノ内駅に着いたとされる。

 患者は、裁縫室などがあった西側の2階建て校舎に続々と運び込まれた。白部さんは婦人会を手伝い、ござの上で苦しむ人々の世話をした。

有志らが慰霊碑

 西日が差し込む8月の校舎は蒸し暑かった。不衛生で、患者に無数のハエが群がった。傷口に湧いたうじを手で取り除き、うちわでひたすらあおいだ。「水が飲みたいと言いながら多くの人が亡くなった。飲ませたくてもできんかった」。婦人会の指示に従った当時の自分を今も責める。

 当時、同国民学校初等科6年だった三宅日出登さん(91)=小用町=は、汽車から降りてくる負傷者を戸板や大八車に乗せて先輩たちと学校へ運んだ。「顔が分からんくらい、ひどいやけどの人もおった」。駅から約900メートル離れた学校まで続いた長い行列は、不気味なほどに静かだった。

 学校で亡くなった人は裏の葛城山で火葬した。近所の男性に連れられて行った三宅さんは「井桁のようにまきを並べて人を焼いていた」と話す。今も夢に見るという。

 88人が亡くなった山内の病棟は45年9月末に閉鎖され、葛城山には戦後、地元の有志によって慰霊碑が建てられた。

 「芸備線が通っていたから逃げられて、助かった人もいる。見知らぬ地でも最後まで生きようと頑張っておられた」と白部さん。三宅さんは山ノ内駅に立ち、「汽車が運んだ命を、山内の人々は懸命につなごうとしたんです」と話し、葛城山を見上げた。(菊池諒)

(2024年8月14日朝刊掲載)

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