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[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月14日 疎開先から入市被爆 「どこも、やけて、たほれてゐました」

 1945年8月14日、当時9歳の高増文雄さん(2015年に79歳で死去)は、家族で疎開していた広島県吉田町(現安芸高田市)から広島市内に入った。原爆投下から8日後。父の勤め先の学校や自宅の状況を見るためだった。

 「今日お父さんと、お姉さんと、ぼくと三人朝三時に起きて、広島へ行きました」(以下、高増さんの14日の日記)。爆心地から約1・9キロ離れた広島駅に着くと、辺りは焼き尽くされていた。「どこも、やけて、たほれてゐました(略)がらすのはへんが、落ちてゐない所は一つもありません」

校庭に「血の塊」

 父で日本画家の高増径草さん(本名啓蔵、85年に84歳で死去)は幼い頃に聴覚を失うも日本画を学び、県立聾(ろう)学校(現中区の広島南特別支援学校)で美術教諭を務めていた。学校は「校舎がたふれそうになってゐました(略)校庭には、ちのかたまりが落ちてゐました」。爆心地から約2・7キロの吉島本町(現中区)にあり、爆風を受けていた。

 元職員の証言などをまとめた「広島ろう学校 被爆と疎開の記録」(96年)によれば、校舎は柱が折れて傾き、寄宿舎もほぼ半壊した。いずれも延焼は免れたため、多くの負傷者の避難先となった。学校は4月に吉田町へ疎開し、教職員や在校生も移っていたが、市内に残って被爆死した子どももいた。

放射化した遺骨

 高増さんの家族のように、職場や自宅の様子を知るため市内に入った多くの人も、「入市被爆」した。この時期、市内各所の残留放射線を測定した記録が残る。日本の原子物理学研究の先駆け、東京の理化学研究所(理研)の研究員だった木村一治さん(96年に87歳で死去)たちが携わった。

 木村さんは10日、大本営調査団に同行して8日に市内に入った仁科芳雄博士の指示で空路送られた銅線から放射線を確認した。さらに詳しく調べるため、木村さんを含む専門家たち9人が放射線の測定器を携えて現地に向かい、14日に広島駅に着いた。

 初日は多くの負傷者が運ばれた似島(現南区)で、遺骨を調べた。骨に含まれるリンが、原爆から放出された中性子を吸収して強い放射化を示すとみられたためだ。

 「午後似の島の研究室にて測定をする。似の島で死んだ人の頭ガイ骨にNatural(自然)の10倍程度のactivity(放射能の強さ)のあることを知る」。木村さんは翌15日朝につけた日記に記す。

 15日から17日にかけては測定器を車に積んで市内を回った。今の県庁近くの西練兵場入り口で「(自然の)五倍強度ノ放射能」(当時の報告資料)を確認。その西側の広島護国神社周辺などでも、自然より高い数値が出た。原爆のさく裂地点の直下、「爆心地」の近くだった。(編集委員・水川恭輔)

(2024年8月14日朝刊掲載)

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