[今日もごちそうさま] 戦後を駆け抜け カレー汁定番に
24年8月15日
新京本店
広島市中区 河野憲昭さん 77歳 和田方子さん 79歳
新京本店(広島市中区)は眠らない。午後6時の開店から翌朝5時まで営業する「深夜食堂」。開店直後は会社帰りのサラリーマン客が多く、日付が変わる頃になるとスナックやクラブの女性やその客。明け方にかけては、夜の街で働く人々が仕事を終えて訪れる「3部構成」スタイルだ。
店を切り盛りするのは店主の河野憲昭さん(77)と姉の和田方子(ともこ)さん(79)。営業中は、河野さんが店に立ち、閉店後、調理担当の和田さんが出勤してきて仕込みを始める。そして、夕方になると再び河野さんに交代。姉弟の24時間リレーで日々、お客をもてなしているという。
多くの人が目当てにするのが特製の「カレー汁」だ。カレーではなく、カレー汁。和風だしを利かせ、さらっとスープ感覚で飲むカレーのよう。店で出し始めたのは40年ほど前という。お酒好きだった和田さんの亡き夫が、まかないで好んで食べていたものを店の客たちが気に入ったのだという。今では県外から訪れる人もいる看板メニューだ。
他にも店内のカウンターには、毎日約40種類のおかずが並ぶ。刺し身や焼き魚、おひたし、肉じゃが、マカロニサラダ。「昔ながらの家庭の味よ」。60年近く店を支えてきた和田さん手作りだ。
店の創業は1945年。「祖父母が始めた中華そばの屋台が始まりと聞いています」と河野さんは言う。終戦後の混乱期には、祖父母が広島駅前の闇市の辺りに小さな店を開いた。50年代に市中心部に移転。その後、現在の店がある流川町に落ち着いた。
姉弟が子どもの頃には、祖父母と母満智子さんが店に出ていたという。和田さんは「酔客も来るしね。店内でけんかする客、絡んでくる客…。いろんな人が来るから、苦労もあったみたい」と振り返る。そんな店に晩年まで立ち続けた母を「根性がすわっとったんだろうね。そうじゃないと続けられんでしょう」と思いやる。
原爆投下時、生後8カ月だった和田さんは両親とともに、爆心地から約1・7キロの西観音町にいたという。「親戚には亡くなった人もいるようだけど、両親も私もけがはなかったみたい。でも詳しく話を聞いたことはないんよ」と話す。戦後を駆け抜け、店を営むのに必死だった母たち。休みはほとんどなく、24時間営業だった時期もあった。「忙しかったもんね。前も後ろも、振り返る余裕なんてないぐらいにね」とつぶやく。
東京で会社員をしていた河野さんは55歳の時、母が倒れたことで広島に戻った。妻や子どもは残したまま、20年以上単身赴任を続けている。閉店後も片付けや仕入れに忙しく、営業日の睡眠時間は3、4時間しかないという日々だ。
それでも79年間、家族がつないできた店―。互いに「どっちかが倒れたら店は終わりよ」と姉弟で支え合い、一日でも長く続けていたい。広島の夜の街に店の灯をともしていたい。(文・馬上稔子、写真・山田尚弘)
ちょっと別腹
むすびパパッと 「待たせない」
カレー汁ほど主張はしないが「結構人気」(河野さん)のメニューがあるという。手のひらサイズのむすび。頰張ると、口の中でほろっと崩れるふんわり優しい三角むすびだ。
握っているのは、店主より長い40年余り店に勤める従業員の井口満さん(62)。店が混み合っていなければ注文から提供まで「1分かからない」という早業を見せてもらった。
まず、河野さんが炊飯釜からむすび1個分のご飯をすくう。それを井口さんが手早く握り、おかか、梅、サケ、昆布のいずれかの具を載せる。くるっとのりを巻いたら完成。流れるような連係プレーだ。「先代からお客さんを待たすなってきつく言われていたんです」と井口さんは話す。
つやつやのむすびをぱくり。ほっとする味に、ごちそうさま。
午後6時~翌午前5時
日、祝日休み。月曜の不定休あり。お盆は15日まで休み
広島市中区流川町5の9
☎082(241)1406
(2024年8月15日朝刊掲載)