[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月15日 「ああ、戦争は終止符になった」
24年8月15日
困惑と深い悲哀と
1945年8月15日正午。当時17歳の伊藤宣夫さん(96)=岩手県遠野市=は広島市宇品町(現南区)の陸軍船舶練習部のラジオの前にいた。船舶通信隊補充隊の少年兵。壊滅した市中心部に6日から入り、救護や遺体の火葬に当たっていた。
負傷者も介助されて集まり、終戦を告げる「玉音放送」を聞いた。伊藤さんは内容を聞き取れなかったが、放送が終わると、「戦争は終わった」と言う人がいた。「そんなばかなことがあるものか。これから、本土決戦だという時に」。しばらく半信半疑だった。
冷静に受け止め
戸惑ったのは、兵士ばかりではない。市内から亀山村(現安佐北区)に疎開していた当時8歳の天津裕さん(2013年に76歳で死去)はこの日の絵日記に、「大きくなったら、兵隊さんに、なって、やっつけてやらうと思ったのに」と書き入れた。原爆投下で祖母を亡くしていた。
一方で、戦時下の激しい「軍国教育」を受ける前に大人になっていた世代には、冷静な受け止めもあった。当時66歳の市内の医師、堤長二郎さんは日記「原爆診療記事 昭和20年8月」にこうつづっている。
「いつもブーブー言って飛んでくる敵の飛行機も来ない。ああ、戦争は終止符になった。戦争が終わったとしたら空襲を受ける心配もない」(8月15日)
堤さんは爆心地から約2キロの比治山本町(現南区)の自宅で被爆。飛び散ったガラスで頭にけがを負っていた。「今後の生活をどうしようと迷っていたのだが、これで心が決まった。このままで頑張る、復興だ、と急に勇気が出て、片付事も家の掃除も張り合いが出てきた」(同)
14歳「くやしい」
人それぞれに、さまざまな感情が交錯していた。伊藤さんは戦時下の夜に真っ暗だった宇品港に明々と電灯がともったのを忘れられない。「ともかく戦争が終わったということだけは認めなければならない」と思わされた。ただ、街は再興できても、すでに奪われた家族が戻るわけではない。
当時14歳で岩国高等女学校(現岩国高)3年だった福森洋子さん(16年に85歳で死去)は15日の日記に、「くやしい」と書いた。妹の広島県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年大下靖子(のぶこ)さん=当時(13)=は6日、市中心部の建物疎開作業に動員されて被爆。自宅のある大竹町(現大竹市)に運ばれ、両親と再会したが、その日に亡くなった。
「皆んな元気がない。戦争が終った事についての話ばかりである(略)お母さんは『靖ちゃんがも少し生きてゐたら戦争もすんでどうにかなるのに靖ちゃんがおらないから生きがいがない』と涙をながしておられた」。福森さんの16日の日記からも、悲嘆に暮れる家族の様子が浮かぶ。
国を挙げた戦争の末に、米軍が落とした原爆。戦争の終わりを告げられたところで消し去れない、悲しみと苦しみを幾多の市民にもたらした。(編集委員・水川恭輔、山下美波)
(2024年8月15日朝刊掲載)
中国新聞社から東南方向を望む