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[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月半ば 救護所は「地獄の世界」

 被爆直後から臨時救護所となっていた第一国民学校(現広島市南区の段原中)の校舎は1945年8月半ばを過ぎても、多くの負傷者が収容されていた。爆心地から2・6キロ南東で、壊れた窓はむしろで覆われていた。

 「『お姉ちゃん、助けて痛いよ』と言う子どもの声が今も耳の底に残っている」。江戸芳江さん(94)=東広島市=は同校で17日から2週間ほど救護に当たった。広島県西条町の賀茂高等女学校(現東広島市の賀茂高)4年生。同窓会によると、県の要請を受けて3、4年生が代わる代わる救護隊として市内に派遣されていた。

 江戸さんは毎朝、破裂した水道管から漏れる水を使って校庭で米を炊き、おかゆを作った。竹が茶わん代わり。ある幼児が「食べたいよ」と差し出した手は、傷から湧いたウジが見えた。やけどで口がただれてかめないため、小さく開く口に流し込んだ。着ていたかすりは熱を吸収しやすい黒い部分は焼かれ、白い部分だけ残っていた。

 校庭に大きな穴が掘られ、校舎から運ばれた遺体が毎日のように火葬された。「風が吹くたびに臭いがして、やれなかった」。救護所には身内がいない子どもも5、6人いたと記憶している。

 「地獄の世界を見た」と江戸さん。その救護所の惨状は、陸軍船舶司令部の写真班員、尾糠政美さん(2011年に89歳で死去)によって45年8月7~20日ごろ写真に記録されている。(山下美波)

(2024年8月18日朝刊掲載)

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