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[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月17日 県北の市民も被害に

 終戦を告げた「玉音放送」から2日後の1945年8月17日。広島市の広島駅のホームには、軍需工場での動員生活を終えて帰郷する学徒の姿があった。同盟通信大阪支社写真部の佐伯敬さん(97年に82歳で死去)が写したその光景に、光島章一さん(2018年に89歳で死去)が写っていると生前に自ら名乗り出た。

 当時16歳で三次中(現三次市の三次高)4年生。手記によれば、44年夏から呉市の海軍工廠(こうしょう)に動員され、寮生活を送っていた。8月6日朝は資材や製品を空襲から守るために入れる穴を掘っていて、きのこ雲を見た。17日、広島駅を経て広島県北の比和町(現庄原市)の実家に向かった。

 ただ、帰り着くと、原爆被害が身に迫ってきた。「思いもしなかった新たな悲劇が待っていた。断末魔同然の唸(うな)り声をあげて喘(あえ)いでいる三歳上の兄の姿だった」(手記)

 兄太郎さん(15年に88歳で死去)は比和町の国民学校で代用教員を務めていたが、6日は児童の習字の紙の配給を受けるために広島市を訪れていた。爆心地から約1・5キロの千田町(現中区)付近で熱線にさらされ、口を開けなくなるほど顔に大やけどを負った。

 原爆による市民の被害は、広島市から離れた県北にも及んでいた。(編集委員・水川恭輔)

(2024年8月17日朝刊掲載)

広島駅構内の動員学生

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