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[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月20日 空鞘町 家屋跡形もなく

 被爆から2週間の1945年8月20日。かつて町工場や木造家屋が密集していた広島市空鞘(そらざや)町(現中区)には、がれきが広がっていた。戦時中に呉市の呉海軍工廠(こうしょう)に勤めていた尾木正己さん(2007年に93歳で死去)が、爆心地から約700メートル北西から撮影している。

 「何もかもなくなっていた」。当時9歳の森岡恵子さん(88)=中区=はその3日前の17日、母と町内に足を踏み入れた。4月に広島市外へ疎開するまで暮らしていたが、生まれ育った自宅は跡形もなく、母が大切に地中に埋めた皿は高熱で溶けていた。「気温は高いし、地面も熱くて」。破裂した水道管からあふれ出る水で喉を潤した。

 自宅の隣にあった空鞘稲生(そらさやいなお)神社も鳥居やこま犬を残して焼失していた。被爆前、子どもたちは境内で遊び、本川国民学校(現本川小)への入学時に祈願に訪れた。町民のよりどころだった。

 「今でも空鞘町の方は行きたくない。胸が締め付けられるんです」と森岡さん。近所の親友一家や、隣の鷹匠町に住んでいた伯父は被爆で命を絶たれた。

 「広島原爆戦災誌」(71年刊)によれば、空鞘町の被爆時の人的被害は「即死者」が9割近くに上った。森岡さんは入市後、疎開先に戻ると、頭痛や吐き気がするなど体調を崩し、1週間寝込んだ。(山下美波)

(2024年8月20日朝刊掲載)

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