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連載・特集

緑地帯 天瀬裕康 原爆文学いま一度⑤

 平和記念公園の噴水近くに「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」があり、碑の台座には「太き骨は」で始まる短歌が刻まれている。その作者正田篠枝は1910年に江田島で生まれ、45年には広島市平野町(現中区)に住み、父の鉄工所を手伝いながら山隅衛さんたちに短歌を学んだ。8月6日に同地で被爆。爆心から約1・7キロ、地獄である。

 彼女は無残な短歌を多数詠んだ。山隅さんは短歌ではないと否定したが、他の師・杉浦翠子さんは好意的で、正田は歌集を出版しようとした。しかし、占領軍は原爆関係に厳しい。後に九州大経済学部教授になる弟は反対するが、広島刑務所で歌集「さんげ」を印刷した。

 63年ごろ作家の古浦千穂子さんと親交を持つようになり、同年秋、広島県立病院で乳がんと診断され、同年10月「短歌至上」の同人で、杉浦さん没後に主宰となる月尾菅子さんの配慮で上京。原爆犠牲者の慰霊のため名号「南無阿弥陀仏」を毎日書き、12月18日に帰広したが書写は続け、65年1月、名号30万を完了。6月15日、平野町の自宅で没した。

 68年、月尾さんは江田島に「正田篠枝三十万名号碑」を建立。遺稿は古浦さんが引き取るが、2012年に亡くなる。私は16年の「ペン西ひろしま」に、正田に関する雑文を書く。今年6月には、文芸誌「コールサック」118号に詩「原爆歌人と名号三十万」が掲載された。正田への詩による紙碑である。(作家・詩人=広島市)

(2024年8月20日朝刊掲載)

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