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南米被爆者の実情訴え 森田隆さんを悼む

 声は大きいが威圧感はない。被爆者援護を巡る取材での話題はたいてい深刻だったにもかかわらず、広島弁の温厚な語り口にいつも癒やされた。

 在ブラジル原爆被爆者協会(後のブラジル被爆者平和協会、解散)会長として被爆者運動を率いた森田隆さん。100歳での悲報を聞いた。南米の被爆者を束ね、在外被爆者援護の道を切り開くとともに、核兵器廃絶と平和への願いを国内外に発し続けた歩みの重みをあらためて思う。

 森田さんは広島県砂谷村(現広島市佐伯区)生まれ。憲兵だった21歳の時、原爆に遭う。自らも大やけどを負いながら救援救護に当たった。急性症状と後障害も現れ、被爆後の暮らしは辛苦を極めたという。移民に希望を抱いて1956年、家族でブラジルへ。だが異国での生活は「苦労の連続」。移民社会での被爆者差別もあったそうだ。

 やがてサンパウロ市内で食料品店を営む。日本の被爆者と同等の援護を求め、同じ被爆者の妻綾子さん(2009年死去)らと1984年に協会を結成。現地邦字紙が報じると、異国で黙していた被爆者が次々と現れた。一人一人に被爆状況を聞き、実態を調査。それまで30人余りとされていた在ブラジル被爆者が3倍以上いることを突き止めた。

 小まめに出向いたり電話をかけたりして不安を抱える被爆者を熱心に支えた。「協会の方角に足を向けて寝られん」とは22年前、広大な国土を現地取材しながら会員たちからよく聞いた言葉である。日本政府を相手に自ら裁判闘争に立ち、在外被爆者への被爆者援護法適用を勝ち取る先駆けとなった。南米各地や北米、韓国の被爆者との連帯も忘れなかった。

 「若い人に伝えたい」との思いは強く、90歳代半ばを過ぎても学校などで証言活動を続けた。昨今はウクライナやパレスチナ自治区ガザでの戦禍に胸を痛めていたという。元協会理事の渡辺淳子さん(81)は亡くなる前日、森田さんを訪ねた。「にこにこして私の手を握って放さなかった。後は任せたぞということだと思う」と遺志を継ぐ思いを新たにする。

 訃報は現地で大々的に報じられた。ブラジルでは若い世代が漫画や映像制作などでヒロシマを伝える試みも生まれている。森田さんは世を去っても、志は生き続ける。(森田裕美)

(2024年8月20日朝刊掲載)

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