[A Book for Peace 森田裕美 この一冊] 夏の読書スペシャル
24年8月20日
兵士の視点 戦場のリアル
凄惨・理不尽 迫る実感
第2次大戦で日本が敗戦し79年が過ぎた。戦争体験者はますます少なくなり、戦争に対する社会の実感は薄らぐばかりだ。戦争の現実を少しでも理解するため、私たちにできることは何だろう。時空を超えて読者の心を揺さぶる表現物から戦争の記憶に触れ、想像力を働かせることならできそうだ。中でも、人と人が殺し合う戦争の前線に立った兵士はいかようだったのか。旧日本軍や兵士を題材にした本から迫ってみたい。
軍隊や兵士を題材にした本は数え切れないほどあるが、従軍を体験した作家の小説はフィクションの体をとりながらルポのような迫真性がある。英雄譚(たん)ではなく、一兵士の目線から描かれた作品は、加害も被害もないまぜの戦争の実情や理不尽を伝える。
真っ先に頭に浮かぶのは超大作「レイテ戦記」(71年)でも知られる大岡昇平(1909~88年)の作品群だろうか。「俘虜(ふりょ)記」(52年)「野火」(同)などに描かれる世界は重く、過酷である。死と隣り合わせの実情が冷徹なまなざしで描き出され、読む側もエネルギーを要するが、向き合うことで兵士の記憶に肉薄できる気がする。
まずは短編から読むのもお勧めだ。大岡の「靴の話」(集英社文庫)には6編が収まる。いずれも「私」が主人公で、表題作は死んだ戦友の靴を履かざるを得ない戦地での現実を描く。「捉(つか)まるまで」はフィリピン山中で若い米兵を目前にしながら撃たなかった私の心の動きから己を問う。「俘虜記」の冒頭にも収められた作品である。
殺人を公然とするのが戦争だ。戦地に赴く前の新兵が教育訓練を受ける内務班を舞台にした野間宏(15~91年)「真空地帯」(52年)は、兵営について登場人物が語る「人間ハコノナカニアッテ人間ノ要素ヲ取リ去ラレテ兵隊ニナル」との言葉が印象的だ。日中戦争での日本兵の残虐行為を描いて38年の発表直後に新聞紙法違反に問われ、発禁処分を受けた石川達三(05~85年)「生きてゐ(い)る兵隊」も読まれたい。「土と兵隊」「麦と兵隊」(38年)など火野葦平(07~60年)の作品も現代の視点から再読する価値があろう。
特攻隊の隊長として出撃命令を受けるも待機中に敗戦を迎えた島尾敏雄(17~86年)「出発は遂(つい)に訪れず」(64年)は、主人公が死の合図を待つ時間がつらい。
久しぶりに読み返し、劇的展開に引き込まれたのは、五味川純平(16~95年)の「人間の條件」(56~58年)。戦争と対極にある「人間性」を守ろうとした男の悲劇を描いた長編である。満州(現中国東北部)の採鉱現場に労務管理担当として赴いた主人公の梶は中国人労働者への虐待を目にする。彼らを人間として扱おうとする梶を待ち受けていたのは、召集免除の取り消しや軍隊内での過酷な仕打ち。旧ソ連との死闘と敗戦を経て、捕虜となった梶は愛する妻との再会を念じ収容所から脱走し―。大河ドラマのような趣で戦争の不条理を伝える。
梶のように良心を失わず生きることは本当にできるのか。渡部良三「歌集 小さな抵抗」(岩波現代文庫)は兵士として中国戦線に赴きながら捕虜虐殺の軍命を拒んだ者のあらがいの記録だ。〈縛らるる捕虜も殺せぬ意気地なし国賊なりとつばをあびさる〉。31文字に凝縮された言葉が心を揺さぶる。
戦争を経験していない子や孫世代が想像力を駆使して兵士の心情を描いた小説にも力を感じる。浅田次郎「帰郷」(集英社文庫)は6編からなる短編集。戦後から兵士の記憶を描く。戦争に人生を翻弄(ほんろう)され戦後も取り残された帰還兵は心に大きな傷を負っている。
読者を南方戦線の炎天下にいるような感覚にさせるのは、高橋弘希「指の骨」(新潮文庫)。飢餓寸前の負傷兵が戦地をさまよう。著者は発表当時30代、ロックミュージシャンの肩書もあり話題になった。人間の心情を描くために戦争を借景にしたと批判も受けたが、小説でこそ伝えられる真実があるように思える。
非体験者は戦争や原爆を語れないのか。当事者でなければ記憶の継承はできないのか。私たちが直面する問いへの答えにもなりそうである。(文中敬称略)
これも!
戦争文学をより深く理解するために歴史背景を押さえておきたい。吉田裕著「日本軍兵士」(中公新書)が浮き彫りにするのは、戦闘死より餓死や栄養失調による病死が兵士の「死の最大の原因であった」という現実だ。元兵士がのこした手記や史資料をつぶさに調べ凄惨(せいさん)な「死の現場」を明らかにする。
鹿野政直著「兵士であること」(朝日新聞社)は兵士を主題に据えた論集。後の世代が「戦争の記憶」というとき、見落としがちな視点に気付かせる。「戦争の記憶というのはえてして空腹とか、空襲とか、疎開とかに収斂(しゅうれん)しがち」との言葉にはっとする。
(2024年8月20日朝刊掲載)