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連載・特集

緑地帯 天瀬裕康 原爆文学いま一度⑥

 かつて旧日本銀行広島支店で開催された原民喜の回顧展に妻と行った時、観覧中の婦人から聞かれた。「ゲンミンキってどこの方ですか?」。広島でも民喜を知らない人がいるのだ。

 彼が生まれた1905年、日露戦争に勝ち、民が喜んだので父親が「民喜」と名付けた。東京や千葉で作家生活をしていたが、神経質で極端な無口。妻の貞恵さんがいないとどこへも行けぬ状態だったという。妻が亡くなった後は帰郷し、幟町(現広島市中区)の自宅で被爆する。戦後、原爆詩と小説を書き、短編「夏の花」は水上滝太郎賞を受賞したが、51年3月、民喜は東京で鉄道自殺をした。

 広島市立中央図書館には、民喜の遺書など直筆資料が保管されている。北海道立文学館にも意外と民喜の資料があるのは、親友の長光太さんが北海道に転居していたからだ。

 2000年9月、民喜の功績を世に広めようと、中国新聞で論説委員も務めた海老根勲さんが、元広島平和文化センター理事長の大牟田稔さんたちと「広島花幻忌の会」を設立した。事務局長の海老根さんは、機関誌「雲雀」の編集も受け持つ。残念ながら代表世話人になった大牟田さんは翌年、他界した。

 私は「雲雀」の2~4号と7、9号に論考を書いた。現事務局長は詩人の長津功三良さんだ。生誕祭などの集いを開き、会報「近状通信」を発行。著作権継承者で民喜のおいの時彦さんや、その長女で代表の友光民子さんたちと活動を続けている。(作家・詩人=広島市)

(2024年8月21日朝刊掲載)

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