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[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月23日 死者なお続く 全容不明

 1945年8月23日付中国新聞(朝日新聞西部本社の代行印刷)に大きな見出しが躍った。「残虐の極『原子爆弾』」。当局の遺体確認数や、なおも死者が相次いでいるのを踏まえ「結局死者は七、八万とみられる」と被害の大きさを報道。そばには初めて広島市内の廃虚の写真も載った。同盟通信大阪支社の佐伯敬さんが撮った(今月15日付本連載で紹介)。

 広島県から国などへの21日付報告資料「八月六日広島市空襲被害並に対策措置に関する詳報」によれば、警察や軍は21日までに計3万2959人の遺体を確認。さらに「家屋建物ノ倒壊其ノ他ニヨリ埋没焼死或(あるい)ハ白骨トナリ居ルモノヲ加算セバ六万ヲ超ユルモノト思料セラル」と見込んだ。

 放射線の急性障害の広がりで死亡者はなおも相次いでおり、被害の全容は不明だった。

 原爆資料館には、23日夜に亡くなった築田直枝さん=当時(17)=の「病状日誌」が残る。避難先の今の広島市安佐北区で治療に関わった人の手で19日の初診から5日間の症状や医師の治療が記録されている。

 築田さんは県衛生課に勤めていて、市中心部で被爆。「全身ニ出血紫斑点ヲ診ス」(日誌)。歯茎の出血や脱毛にも襲われた。22日には熱が40度5分に。ブドウ糖やビタミンの注射を受けたが、助からなかった。

 日誌は治療が及ばなかったとして「オ詫(わ)ビ致シマス」と結ばれている。病名は「原子爆弾症(敗血症)」と記された。(編集委員・水川恭輔)

(2024年8月23日朝刊掲載)

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