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[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月下旬 饒津神社で身寄せ合う

 1945年8月下旬。旧広島藩を治めた浅野氏の歴代当主たちを祭る饒津(にぎつ)神社(現広島市東区)は、原爆で本殿や唐門を破壊され、無残な姿をさらしていた。爆心地の北東約1・8キロに位置。多くの被災者を受け入れ、臨時の救護所が設けられた。

 神社そばの自宅を失った吉田章枝さん(95)=東区=は被爆から約1カ月間、境内に身を寄せた。当時16歳で、比治山高等女学校(現比治山女子中高)4年生だった。

 今の南区にあった動員先で被爆後、「神社に行けば家族に会えるかもしれない」と同級生と逃げ込んだ。避難者であふれる境内で幸い母秋子さん(98年に95歳で死去)と再会。近所の人から畳2枚を譲り受け、ふすまのようなものを屋根にして雨露をしのいだ。

 ほかの家族を捜して母と焼け跡を歩いた。妹幸枝さん=当時(7)=は自宅で梁(はり)の下敷きになって亡くなっており、姉涼枝さん=同(19)=は職場の焼け跡から遺骨が見つかった。父頼次郎さん=同(50)=は行方が分からなかった。

 吉田さんは、在りし日の神社の思い出が尽きない。「近所の友達と走り回って遊んだ。いい思い出がたくさん」。ただ、家族の死を突き付けられながら母と励まし合って生き延びた日々の方を一層思い出す。

 呉海軍工廠(こうしょう)に勤めていた尾木正己さんが20日に撮影した境内は、がれきが散乱している。吉田さんによると、避難者は日がたつにつれて減っていった。(新山京子、山本真帆)

(2024年8月26日朝刊掲載)

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