[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月25日 死亡診断書に「瓦斯中毒」
24年8月25日
爆心地の北西約9キロの広島県伴村(現広島市安佐南区)。医師の伴(ばん)冬樹さんは営む診療所で連日多くの被爆者を診察し、亡くなった人の死亡診断書を書いた。1945年8月25日に死去した22歳の男性軍人の死因は、「戦災瓦斯(ガス)中毒」と記した。
「黒い雨で池や川は真っ黒になり、魚が死んで浮き上がってきた。落ちた爆弾が毒物や毒ガスを出すと思ったのでは」。長男で医師の敏彦さん(90)=同区=は推察する。当時国民学校6年。早朝から診療所に列を成す人たちを夜遅くまで診ていた亡き父を思い、未知の原爆被害に直面した苦労をかみしめる。
死亡診断書は、6日から9月16日までに亡くなった52人分が残る。原爆投下直後の死因に多いのは「戦災火傷死」や「戦災焼死」。「戦災瓦斯(ガス)中毒」は8月15日から27日までの6人で、原爆放射線による急性障害でけがが少ない人の死亡が増えた時期と重なる。敏彦さんは「父の元まで放射線の情報が届くのは時間がかかったのだろう。なぜ死んでいくのか分からない葛藤が続いたと思う」と話す。
懸命な救護でも救えなかった命。伴さんは「安佐医師会史」(85年)収録の手記に無念さをつづっている。「原子爆弾症が何ものかもわからず、五里霧中のうちに対症療法も思うに任せず死亡した同胞多数に対し、資材の不足と余りに急激の大負傷者のため不十分なる救護であったことを残念に思い、ひたすら死者のめい福を祈るのみ」(山本真帆)
(2024年8月25日朝刊掲載)
「黒い雨で池や川は真っ黒になり、魚が死んで浮き上がってきた。落ちた爆弾が毒物や毒ガスを出すと思ったのでは」。長男で医師の敏彦さん(90)=同区=は推察する。当時国民学校6年。早朝から診療所に列を成す人たちを夜遅くまで診ていた亡き父を思い、未知の原爆被害に直面した苦労をかみしめる。
死亡診断書は、6日から9月16日までに亡くなった52人分が残る。原爆投下直後の死因に多いのは「戦災火傷死」や「戦災焼死」。「戦災瓦斯(ガス)中毒」は8月15日から27日までの6人で、原爆放射線による急性障害でけがが少ない人の死亡が増えた時期と重なる。敏彦さんは「父の元まで放射線の情報が届くのは時間がかかったのだろう。なぜ死んでいくのか分からない葛藤が続いたと思う」と話す。
懸命な救護でも救えなかった命。伴さんは「安佐医師会史」(85年)収録の手記に無念さをつづっている。「原子爆弾症が何ものかもわからず、五里霧中のうちに対症療法も思うに任せず死亡した同胞多数に対し、資材の不足と余りに急激の大負傷者のため不十分なる救護であったことを残念に思い、ひたすら死者のめい福を祈るのみ」(山本真帆)
(2024年8月25日朝刊掲載)