[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月27日 元気だった少年も逝く
24年8月27日
原爆投下から3週間後の1945年8月27日。広島一中(現広島市中区の国泰寺高)1年の吉冨健さん=当時(12)=が、広島県西条町(現東広島市)の自宅で家族に見守られて息を引き取った。白血球が激減し、高熱が出て床に伏していた。
「つらいのは恐らく一生涯最大のものでせう」。父浩太さん(69年に66歳で死去)は、すぐに親族に手紙で報告し、悲しみを吐露した。町内の傷痍(しょうい)軍人広島療養所(現東広島医療センター)に勤め、家族で官舎に住んでいた。
健さんは6日、爆心地から約850メートルの一中で被爆。倒壊した校舎から脱出し、療養所の救護班に助けられて7日に帰宅した。「健の姿を見た時はうれし涙が流れて」(手紙)。イモの世話やニワトリの餌やりをして元気な姿を見せた。
だが、18日ごろ発熱。療養所の医師が白血球減少を確認し、治療もしたが助からなかった。「死んで行くまでしっかりした良い子供でした。(病床で)『お父ちゃんよりもっともっとえらい人になるのだったのに』とも言ひました」(同)
母秀子さん(2006年に95歳で死去)も尽きぬ思いを後に手記につづった。「『待っていてね 後から行きますよ』と云(い)って訣(わか)れたあの日は八月二十七日でした。永遠に眠ってしまった健ちゃん‼ あなたをもう一度抱きしめて上げたい!」
27日付中国新聞(毎日新聞西部本社の代行印刷)には「残された『原子爆弾』の恐怖 今後七十年は棲(す)めぬ」の記事が載った。放射線に関する米科学者の談話に端を発し、他紙でも取り上げられた。(編集委員・水川恭輔)
(2024年8月27日朝刊掲載)
「つらいのは恐らく一生涯最大のものでせう」。父浩太さん(69年に66歳で死去)は、すぐに親族に手紙で報告し、悲しみを吐露した。町内の傷痍(しょうい)軍人広島療養所(現東広島医療センター)に勤め、家族で官舎に住んでいた。
健さんは6日、爆心地から約850メートルの一中で被爆。倒壊した校舎から脱出し、療養所の救護班に助けられて7日に帰宅した。「健の姿を見た時はうれし涙が流れて」(手紙)。イモの世話やニワトリの餌やりをして元気な姿を見せた。
だが、18日ごろ発熱。療養所の医師が白血球減少を確認し、治療もしたが助からなかった。「死んで行くまでしっかりした良い子供でした。(病床で)『お父ちゃんよりもっともっとえらい人になるのだったのに』とも言ひました」(同)
母秀子さん(2006年に95歳で死去)も尽きぬ思いを後に手記につづった。「『待っていてね 後から行きますよ』と云(い)って訣(わか)れたあの日は八月二十七日でした。永遠に眠ってしまった健ちゃん‼ あなたをもう一度抱きしめて上げたい!」
27日付中国新聞(毎日新聞西部本社の代行印刷)には「残された『原子爆弾』の恐怖 今後七十年は棲(す)めぬ」の記事が載った。放射線に関する米科学者の談話に端を発し、他紙でも取り上げられた。(編集委員・水川恭輔)
(2024年8月27日朝刊掲載)