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[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月末 熱線で自然着火の跡

 1945年8月末。爆心地から西に2・1キロ離れた広島市山手町(現西区)の山陽線線路沿いに燃えた木の柵が残っていた。現場の状況から被爆時に自然着火したと考えられている。北勲さん(2001年に89歳で死去)が記録した写真は熱線のすさまじさを示す。

 「記録魔で、カメラ好き。観測者として何か残したかったのだろう」。三男の伸彦さん(76)=安佐北区=は想像する。北さんは当時34歳で、広島管区気象台(現中区の広島地方気象台)の技術主任だった。

 6日は、江波山(現中区)の山頂にあった気象台で被爆。当日の当番日誌は「台員半数爆風ノタメ負傷」と伝える。しかし欠勤者が相次いでも、北さんたちは気象の観測を続けた。そればかりか、原爆の特異な被害を独自に調べた。自然着火の調査は、気象台の「広島原子爆弾被害調査報告(気象関係)」(47年)の中でまとめている。

 山手町の柵を「明らかにそれ自体に着火して燻(くすぶ)ったもので延焼ではないことは確認出来る」と指摘。わらの屋根や山林の松葉、線路の枕木など乾燥して燃えやすい素材について、爆心地から約3キロ圏で自然着火が見られたとした。

 占領下に原爆調査の発表が制限され、調査報告は53年にようやく刊行された。被爆から間もない時期の記録の積み重ねがあってこそだった。

 北さんは生前、原爆関連の写真集に寄せた手記に「悲惨な姿を写真に残し、戦争が再び起きないことを願う」とつづっている。45年9月も、爆心地近くの相生橋などに向けてシャッターを切った。(山下美波)

(2024年8月28日朝刊掲載)

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