[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月29日 わが子へ輸血かなわず
24年8月29日
1945年8月29日。東京の海軍艦政本部の大佐、正木生虎(いくとら)さんは、広島にいた妻巴子(ともこ)さんに宛てて手紙を書いた。「私の血の半分でも若(も)しそれで足らなければ全部でも輸血して義虎の頰の紅潮して来る所を見たい」。長男義虎さん=当時(13)=の回復を切に願った。
義虎さんは広島一中(現広島市中区の国泰寺高)1年。東京から疎開し、広島市内の親族宅に下宿して通学していた。爆心地から約850メートルの校舎で被爆後、母やきょうだいの疎開先の広島県玖波町(現大竹市)へ7日夜にたどり着いた。
だが、20日に発熱し、床に伏す。21日に頭髪が抜け始め、22日には歯茎から出血した。病状を巴子さんの手紙で知ると、軍の原爆調査の情報に触れていた正木さんは、29日の返信に「今度の光線の影響として赤血球、白血球共に非常な減少度を示し人命を危うくする」と書き、輸血治療が「最善」と説いた。
その日、義虎さんは息を引き取った。父との再会を待ち望み、「お父様は何時(いつ)帰られるかなあ。今日だといいのになあ」と漏らしていたと巴子さんは手記につづる。父は終戦に関わる任務で、東京を離れられなかった。
父母の手紙や手記は2人の死後、弟孝虎さん(89)=東京=が受け継いだ。「優しくて思いやりのある兄でした」。病床の義虎さんは一中の記章をボール紙と銀紙で作り、治ったら着けて登校するのを楽しみにしていた。
「原子爆弾症」が猛威を振るう広島へ、東京の放射線医学の専門家たちが29日向かった。(編集委員・水川恭輔)
(2024年8月29日朝刊掲載)
義虎さんは広島一中(現広島市中区の国泰寺高)1年。東京から疎開し、広島市内の親族宅に下宿して通学していた。爆心地から約850メートルの校舎で被爆後、母やきょうだいの疎開先の広島県玖波町(現大竹市)へ7日夜にたどり着いた。
だが、20日に発熱し、床に伏す。21日に頭髪が抜け始め、22日には歯茎から出血した。病状を巴子さんの手紙で知ると、軍の原爆調査の情報に触れていた正木さんは、29日の返信に「今度の光線の影響として赤血球、白血球共に非常な減少度を示し人命を危うくする」と書き、輸血治療が「最善」と説いた。
その日、義虎さんは息を引き取った。父との再会を待ち望み、「お父様は何時(いつ)帰られるかなあ。今日だといいのになあ」と漏らしていたと巴子さんは手記につづる。父は終戦に関わる任務で、東京を離れられなかった。
父母の手紙や手記は2人の死後、弟孝虎さん(89)=東京=が受け継いだ。「優しくて思いやりのある兄でした」。病床の義虎さんは一中の記章をボール紙と銀紙で作り、治ったら着けて登校するのを楽しみにしていた。
「原子爆弾症」が猛威を振るう広島へ、東京の放射線医学の専門家たちが29日向かった。(編集委員・水川恭輔)
(2024年8月29日朝刊掲載)