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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月2日 韓国・朝鮮人に被爆証明

 1945年9月2日。日本は東京湾上の米戦艦ミズーリで降伏文書に調印した。連合国軍の日本占領が正式に決まった。

 21歳の郭貴勲(クァク・クィフン)さん(2022年に98歳で死去)はこの日付で原爆罹災(りさい)証明書の交付を受けた。「広島市空襲ニ際シ原子爆弾ニ依(よ)リ受傷悪性貧血ニ罹(かか)リタルヲ証明ス」。創氏改名による日本式の「松山忠弘」名で、所属部隊の隊長と軍医の記名、押印がある。

 回想録「被爆者はどこにいても被爆者」(16年刊の日本語訳)によれば、全州師範学校在学中の44年に日本の植民地支配下の朝鮮半島から徴兵で広島に送られた。爆心地から約2キロの工兵第五大隊の営庭で被爆。上着に火がついて重傷を負い、大野村(現廿日市市)の陸軍病院分院に入院した。

 45年8月15日に、分院で終戦を告げる「玉音放送」を聞いた。「胸がどきどきしながら涙が噴き出した(中略)胸を痛め希求した祖国の独立。それがまさに現実に。いや、目の前に近づいたのだ」(回想録)。部隊は9月初めに解散。復員後、韓国で教員になった。

 67年に、韓国原爆被害者援護協会(現韓国原爆被害者協会)の設立に参加。在外被爆者を援護の枠外に追いやる日本政府を提訴し、02年の大阪高裁の勝訴判決で被爆者援護法に基づく健康管理手当の支給を勝ち取った。「被爆者はどこにいても被爆者」と訴え、日本の市民も支援した。

 被爆を刻む証明書は韓国の独立記念館に寄贈。レプリカを広島市の原爆資料館に提供した。19年に資料館の展示を見学し、「韓国・朝鮮人の数え切れない死や苦難を、私の資料から知ってほしい」と言い残した。(編集委員・水川恭輔)

(2024年9月2日朝刊掲載)

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