[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 市民団体代表 木原省治さん(75) 宮崎安男
24年9月2日
「被爆者でなくとも」実践
「原発はごめんだヒロシマ市民の会」代表をはじめいくつもの反核平和運動の肩書を持つ。酷暑が続いた今夏も広島を訪れる団体や学校から依頼を受け平和記念公園(広島市中区)や周辺のガイドに連日汗を流した。
「宮崎さんがいなければ私は今こんな活動をしていないでしょう」。運動のきっかけを与えてくれた先人を思う。宮崎安男さん(2007年78歳で死去)。広島県原水禁事務局長や代表委員を歴任し、被爆地の運動を陰に日なたに支えた人だ。
戦中を光市で過ごした宮崎さんに被爆体験はない。だが労働運動を通じ被爆者の一人一人の辛苦に触れる。その悲痛な叫びを原点に世界の核情勢に厳しい目を向け、核実験抗議の座り込みを続け、被爆者の声を中央に届ける「被爆者列車」を主導するなど援護運動にも力を注いだ。
「被爆者ではなくとも、自分の問題として捉え近づくことはできる」―。口癖のように語り実践する姿は戦後生まれの後進に影響を与えた。「上から目線の人が多い運動の世界で、黙って背中を見せてくれた」
出会いは電電公社(現NTT)に入社し、全電通被爆二世協議会に参加していた20代の頃。全電通の先輩で当時は県原水禁事務局長だった宮崎さんに声をかけられた。「木原くんにぴったりの企画がある。行ってみんか」
1978年5月、米ニューヨークで開かれた国連軍縮特別総会に先立ち、計画された日米共同の反核行動ツアー。被爆した両親を持つ「2世」として、仲間に加わった。
コロラド州ロッキーフラッツにあった核兵器製造工場や、当時再処理工場建設が計画されていたサウスカロライナ州バーンウェル、ネバダの核実験場、ウラン採掘場のある先住民居留地などを20日間かけて巡り、デモや集会に参加。「原発と核兵器は表裏一体。核に平和利用も軍事利用もないと改めて気付かされた」
核超大国で反核の声を上げる草の根の気概にも触れた。毎年8月6日と9日の原爆の日に、原発の前で抗議行動をしているという。政党や労組の動員に頼る男性中心の日本の運動と違い、女性たちが生き生きと非暴力の行動を繰り広げていた。
「被爆地でこそこんな反原発運動を」と決意して帰国し、宮崎さんに相談すると喜んで応援してくれた。10月「市民の会」が誕生。宮崎さんも参加した発足式はバンド演奏で反核の意思を表す楽しい門出となった。「『平和利用』は安全と考える人が多かった時代に先駆的だったと思う」
翌年米スリーマイル島で原発事故が起き、82年には山口県上関町で原発誘致の動きが表面化。86年には旧ソ連チェルノブイリ原発事故も起きた。訴えは現実味を増した。
その後も事あるごとに近くに住む宮崎さんを訪ね、話を聞いてもらった。座り込みなどを共にし、背中を見てきた。
年を重ねても宮崎さんは組織や団体の枠を超え、多様な運動に精を出した。被爆者健康手帳の申請に必要な証人捜しや原爆症認定集団訴訟の支援にも奔走。中国人被爆者をはじめとする在外被爆者の救援にも尽くした。核兵器を持ってにらみ合うインドとパキスタンの若者を被爆地に招いて交流してもらう草の根活動も支えた。
自身の活動は「被爆者の苦しみを原点にあらゆる核に反対し、市民による運動を目指した宮崎さんに連なっている」と感じる。被爆者でなくても…。宮崎さんの言葉をかみしめ、今日も動く。(森田裕美)
きはら・しょうじ
1949年広島県五日市町(現佐伯区)生まれ。67年電電公社(現NTT)入社、2014年退職。「原発はごめんだヒロシマ市民の会」代表、広島県原水禁常任理事、「反原発新聞」編集・経営委員、県被団協(箕牧智之理事長)被爆を語り継ぐ会碑めぐりガイド、広島市原爆被害者の会事務局次長など多数の役を務める。佐伯区在住。
被爆者列車
1975年2月、被爆者援護法の制定を求め、総評系18団体でつくる広島県中央上京団(宮崎安男団長)の被爆者や被爆2世たちが、夜行の臨時列車を仕立て上京し声を届けた運動。約500人を乗せ、25日に広島駅を出発、翌26日に東京入りした。国会周辺でのデモや首相官邸そばでの座り込みなど多様な行動を展開し、被爆者の実情を訴えた。
(2024年9月2日朝刊掲載)