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社説・コラム

[知っとる? ヒロシマ調べ隊] 食糧や日用品 米の団体から

Q 戦後届いた「ララ物資」って?

 1945年の敗戦以降、日本は厳しい食糧難と物資不足に直面しました。その頃、海外のさまざまな団体からの援助物資が被爆後の広島をはじめ、全国各地に届けられました。「ララ物資」がその一つです。

 「ララ(LARA)」は日本や朝鮮、沖縄を支援しようと米国の宗教団体や労働団体で結成した組織「Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救援公認団体)」の頭文字。北米や南米、ハワイに暮らす日系人らもお金を寄付したり、物資を集めたりして協力しました。

 物資を載せた船の第1便が神奈川県の横浜港に到着したのは46年11月でした。配給は原爆被害を受けた広島と長崎、空襲を受けた大都市の東京や大阪などから始まり、52年までに1万5千トン以上が全国に送られました。脱脂粉乳や小麦粉などの食糧、日用品や文房具のほかに生きた乳牛やヤギもいたそうです。

 日本は米軍を中心とする連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にありました。ララ物資を送る活動はGHQの許可のもと、配分先を決める際には日本政府も関わりながら行われました。

 「『ララ』と聞くと今でも胸がキュンとなる。とてもひもじかった戦後、初めてのごちそうが学校給食の粉ミルクでした」と被爆者の八幡照子さん(87)=広島県府中町=は振り返ります。

 広島市己斐町(現西区)の自宅は原爆で被害を受け、戦後は家族で光市に移り住みました。食糧難は戦争中よりむしろ厳しく、カボチャやイモの茎などで飢えをしのぐ日々。でもララ物資の給食は「缶詰のサケが入ったスープもおいしかった。忘れられません」。

 米国の市民団体が設立した「対欧送金組合(ケア)」や、国連児童基金(ユニセフ)などの支援物資も広島に届けられました。日本と戦争をして原爆を投下した米国をはじめ、海外の市民による善意に支えられ、広島は復興への道を歩んだのです。(小林可奈)

(2024年9月2日朝刊掲載)

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