[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月1日 「復興」期す市民も犠牲
24年9月1日
1945年9月1日。広島市横堀町(現中区)で「小原製菓所」を営んでいた小原友次郎さん=当時(61)=が今の西区の避難先で亡くなった。被爆の直後から、工場の復興を固く誓っていた。
生後間もなく父と死別し、16歳から菓子店で修業。20歳で結婚して独立し、6男1女を育てながらゼリーや甘納豆を作っていた。戦前はハワイなどにも輸出。広島の製菓組合の組合長を務めた。
8月6日。爆心地から約900メートル北西の製菓所やそばの自宅は崩れ、小原さんは頭にけがをした。家の前で自転車を磨いていた六男雅治さん=当時(19)=は全身にやけどを負って命を落とした。
小原さんは7日、焼き尽くされた自宅跡に戻り、「復興」の旗を立てた。焼け残った布に炭で書いたという。三男芳郎さん(2003年に90歳で死去)が一緒だった。
孫の宮川薫さん(66)=中区=は父(芳郎さん)から当時の話をよく聞いた。「祖父は旗を立てると『絶対にここへもう一回、工場を建てるんだ』と言ったそうです」
だが、1週間ほどして寝込んだ。「だるい、どうしてかのう」と言い、療養しても助からなかった。「『復興』の旗は長年、仏壇に大切に収められていました」と宮川さん。残された家族は協力して工場を再建した。
原爆は再起を目指す幾多の市民の体をむしばんでいた。げた職人の香川金造さん=当時(56)=は広瀬地区(現中区)の仕事場兼自宅で被爆し、郊外に避難。けがは少なく、自転車で仕事道具を取りに行っていたが、9月1日に死去した。原爆資料館に残る死亡診断書の死因欄は「ウラニューム中毒」と書かれている。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月1日朝刊掲載)
生後間もなく父と死別し、16歳から菓子店で修業。20歳で結婚して独立し、6男1女を育てながらゼリーや甘納豆を作っていた。戦前はハワイなどにも輸出。広島の製菓組合の組合長を務めた。
8月6日。爆心地から約900メートル北西の製菓所やそばの自宅は崩れ、小原さんは頭にけがをした。家の前で自転車を磨いていた六男雅治さん=当時(19)=は全身にやけどを負って命を落とした。
小原さんは7日、焼き尽くされた自宅跡に戻り、「復興」の旗を立てた。焼け残った布に炭で書いたという。三男芳郎さん(2003年に90歳で死去)が一緒だった。
孫の宮川薫さん(66)=中区=は父(芳郎さん)から当時の話をよく聞いた。「祖父は旗を立てると『絶対にここへもう一回、工場を建てるんだ』と言ったそうです」
だが、1週間ほどして寝込んだ。「だるい、どうしてかのう」と言い、療養しても助からなかった。「『復興』の旗は長年、仏壇に大切に収められていました」と宮川さん。残された家族は協力して工場を再建した。
原爆は再起を目指す幾多の市民の体をむしばんでいた。げた職人の香川金造さん=当時(56)=は広瀬地区(現中区)の仕事場兼自宅で被爆し、郊外に避難。けがは少なく、自転車で仕事道具を取りに行っていたが、9月1日に死去した。原爆資料館に残る死亡診断書の死因欄は「ウラニューム中毒」と書かれている。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月1日朝刊掲載)