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[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月31日~9月1日 原爆症 治療に苦心 「罹災の方々を慰めようと」

 1945年8月31日。広島市宇品町(現南区)の広島第一陸軍病院宇品分院で、原爆による放射線障害が著しい22歳の男性兵士が亡くなった。放射線医学が専門の東京帝国大(現東京大)の都築正男教授たちの調査に伴い、詳しい診療記録と症状の写真が残る。

免疫 極端に衰え

 兵士は6日、爆心地から約800メートルの堤防で爆風を受けて川の中に吹き飛ばされた。頭や腰をぶつけて負傷。20日まで入院して治療を受けた。

 いったん部隊に戻ったが、熱が出て28日に宇品分院に入院。内出血の斑点が全身に現れ、髪が抜け落ちた頭に目立った。貧血や出血性口内炎も発症。30日に意識障害が起き、31日朝に死亡した。

 血液1立方ミリメートル当たり4千~9千個程度が正常値とされる白血球の数は死亡直前には、100個を切っていた。免疫力が極端に衰えていた。

 分院には約500人が入院しており、都築教授は「原子爆弾の災害が全く初めての経験であって、その見通しや治療対策なども全然不明であった」(53年の雑誌「生態」の手記)。9月1日に宇品分院で関係者を集めて意見を交わし、当面の「原子爆弾傷者治療対策」をまとめた。

 出血や脱毛の症状がある被爆者のうち、治療が難しい「白血球一〇〇〇以下ニシテ既ニ予後不良ト考ヘラルルモノ」を重症者とし、鎮痛をはじめ対症療法を基本とした。一方、白血球が千個以上は中等症者。患者の静脈の少量の血液を太ももの筋肉内に注射して骨髄組織の造血機能の回復を図る治療や、ビタミンの大量投与などを提示した。

 「確信があったわけではなかったが、現地の極度の不安な状況を見るにみかね、精神的にでも、罹災(りさい)の方々を慰めようとの微意からであった」(都築教授の手記)。原爆さく裂時に爆心地から2キロ以内にいて嘔吐(おうと)や下痢などに襲われた人に、症状が治まっていても医師の診断を受けるよう呼びかける必要性も示した。

 医薬品や医療機器が足りない中での苦心の治療対策は、市内での都築教授の講演(3日)などで医師たちに伝わった。広島赤十字病院の竹内釼(けん)院長は手帳に内容を詳しくメモしている。

地元医師も尽力

 ただ、地元医師たちも独自に動いていた。広島逓信病院の蜂谷道彦院長は8月26日に「原子症に関する注意」を書いて関係先に掲げ、白血球減少などを伝えた。29日には広島県立医学専門学校(現広島大医学部)の玉川忠太教授(病理学)が病院そばで病理解剖を開始。バラックに解剖台を設けてメスを握った。

 蜂谷院長は都築教授たち東京の医学者の講演を9月3日に聞くと「よい参考資料」と感じた一方、競争心が芽生えて「うっかりできぬぞ」とも思った(55年の著書「ヒロシマ日記」)。広島の医師たちも未知の原爆被害に正面から立ち向かっていた。(編集委員・水川恭輔)

(2024年8月31日朝刊掲載)

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