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[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月30日 「これは容易ならぬ」 放射線医学 調査班が到着

 1945年8月30日。東京帝国大(現東京大)の都築正男教授や陸軍軍医学校の教官たちの合同調査班が鉄路で広島市に着いた。都築教授は24日に都内で亡くなった俳優の仲みどりさんを「原子爆弾症」と診断した放射線医学の専門家だ。

 調査の拠点を、宇品町(現南区)の陸軍船舶練習部内に設けられていた広島第一陸軍病院宇品分院に置いた。今のマツダ宇品工場にあり、重症の患者約500人を収容。現地に着いた都築教授は「これは容易ならぬ」(53年の雑誌「生態」の手記)と感じ取った。

「極度の恐怖に」

 「傷害を受けなかったと喜んでいた人々の間から、続続と所謂(いわゆる)原子爆弾症が多数発生し、相次いで、死亡されて止まるところを知らずといったような状況であったので、現地の人々を極度の恐怖におののかしめ絶望的な気分におとしいれ…」(同)

 患者に発熱、体の出血斑、歯茎の出血などが相次いでいた。原爆の放射線が骨髄の細胞を傷つけて血を造る機能を低下させ、病原菌から体を守る白血球や止血に重要な血小板が減るためだ。

 都築教授らの指示によって船舶練習部の写真班員、木村権一さん(73年に67歳で死去)は30日から9月3日ごろまで、患者の撮影を重ねた。その一人、33歳の男性兵士は爆心地から約1キロで被爆。髪が抜け落ちて出血斑も多く見られ、熱も出て6日に亡くなった。

 「原子爆弾症」の調査目的で放射線障害を最も早く克明にカメラで記録したのが木村さんの一連の患者の写真だ。自らも爆心地から約4・2キロの練習部で原爆に遭い、妻は被爆死していた。

赤十字も市内へ

 8月30日には、東京の赤十字国際委員会(ICRC)駐日代表部職員フリッツ・ビルフィンガーさん(93年に死去)も広島市内に入っていた。

 ICRCは本部をスイス・ジュネーブに置き、紛争地で中立の立場から救護を担う。ビルフィンガーさんは市内の2病院を回り、マルセル・ジュノー駐日首席代表に宛てて電報でこう伝えた。

 「爆弾の威力は信じがたいほど深刻。回復に向かっているかにみえた患者の多くが白血球の減少などの体内の異常により致命的な症状の再発に苦しみ、膨大な数の人々が死んでいく」

 「推定10万人以上の負傷者がいまだ周辺の救急病院におり、包帯や医薬品は深刻な欠乏状態」とも報告した。大量の包帯、やけど用軟こう、輸血用器具などの救援物資を上空から即時に投下できないか、連合国軍の最高司令部に要請してほしいと訴えた。

 日本占領を統括する連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥はこの日、バターン号で神奈川県の厚木飛行場に降り立った。(編集委員・水川恭輔)

(2024年8月30日朝刊掲載)

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