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連載・特集

緑地帯 ささぐちともこ 被爆ギターの響き、未来へ④

 被爆ギターの持ち主、井上進さんはシャイな感じの方だ。私がご自宅に伺いたいと申し出ると、それはご勘弁を、とのことでメールでの取材を始めた。

 進さんの父・哲夫さんは体が弱く、家でギターを弾いて過ごすことが多かった。19世紀モデルのギターは、1938年ごろ(哲夫さんが19歳の頃)に、ギターの先生である細川源三郎氏が職人に特注して、哲夫さんのために作らせた。哲夫さんは原爆投下の前日まで、そのギターを大切に弾いていたという。

 8月6日の朝、職場で被爆した哲夫さんと父親は自宅にたどり着いたが、家にいた母親は、爆風で飛び散ったガラスが首に刺さり大出血。一命を取り留めたが、看病をしていた無傷の父親が翌月、亡くなった。哲夫さんは一家の大黒柱となって働き、大好きなギターを手に取ることはなかったという。

 哲夫さんが再びギターを手にしたのは、進さんが10歳の頃。安いギターを買って弾き始めた。進さんには、当時の特別な思い出がある。父と一緒に広島市の胡町で映画を見た帰りのことだ。「手持ちのお金がバス代に足りないから、歩いて帰ろう」と父に言われ、比治山を越え1時間以上かかる道のりを一緒に歩いた。その時、初めて父が大切にしていたギターの話や、先生のことを聞かされた記憶があるという。梅雨の晴れ間、道端には紫陽花(あじさい)が咲いていた。後で聞いた話だが、と進さん。バス代が足りないというのは嘘(うそ)だったそうだ。(児童文学作家=広島市)

(2024年8月30日朝刊掲載)

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