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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月3日 新聞自力発行 救護訴え

 1945年9月3日。中国新聞は、この日付で被爆後初めて自力発行した。広島市中心部の社屋も社員も甚大な被害を受けて発行が止まり、8月9日付から他紙による代行印刷が続いていた。広島県温品村(現東区)に疎開させていた輪転機1台を、送電問題に直面しながら試行錯誤して動かした。

 9月3日付1面に「戦災につき中央へ望む」と題する社説を掲載。「広島市の惨状はまことに筆紙に尽(つく)し難いものである(略)当局の積極的な具体的な救護対策が速急に実施されんことを望むものである」と訴えた。

 日本が降伏してもなお死者は増え続ける状況に、社説で東京帝国大(現東京大)の都築正男教授たちの被害調査を「良心的熱意に対してわれらは感謝する」とも強調。4、5日付の記事で都築教授が説く原爆症の治療対策などを詳しく伝えた。

 3日には、ニューヨーク・タイムズなどの米従軍記者団約20人が広島に入った。府中町の東洋工業に置かれていた県庁で県警察部の課長や県政担当記者と会談した。「広島市惨状をみてどう感じたか」と県政記者団から問われ、米記者団は「われわれはヨーロッパ太平洋の各戦線を従軍したが、都市の被害は広島がもっとも甚大だと思った」(5日付中国新聞)。

 出席した32歳の本紙記者、大佐古一郎さん(95年に83歳で死去)は機材の差を感じた。「彼らの立派な服装やカメラ、アイモ(映画用カメラ)などに比べると、われわれはよれよれの国民服に地下足袋、巻き脚絆(きゃはん)といういでたち、カメラは誰も持っていない」(75年刊の「広島昭和二十年」)

 海外メディアも高い関心を寄せるヒロシマ。地元記者たちは、苦境にあっても被爆地の視点で取材を続けた。(編集委員・水川恭輔)

(2024年9月3日朝刊掲載)

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