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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月4日 物理学者が見た爆心地

 1945年9月4日。島病院があった爆心直下の広島市細工町(現中区)は、被爆から1カ月近くたっても、がれきに覆われていた。理化学研究所(理研)の原子核物理学研究者、山崎文男さん(81年に74歳で死去)が撮影した廃虚に、島病院の壁の残骸も写る。

 当時38歳。所属していた仁科芳雄博士の研究室が戦時中に陸軍から原爆の開発研究を受託し、山崎さんはウラン濃縮の成否判定に関わった。原爆の残留放射線を調べるため、東京帝国大(現東京大)の都築正男教授たちの合同調査班の一員として、東京から8月30日に市内に入った。

 原爆の使用現場は衝撃を与えた。「(壊れた家屋の)屋根などは巨人が踏みつぶして歩いた感をもたせる」(同30日の日記)。「東京の焼跡とひどく違ふのはどの石造も破壊され全く大地震、大暴風に火災に見舞はれた感だ」(9月1日)

 山崎さんたちは5日にかけて残留放射線を測定。爆心地付近で自然よりも強い放射線を認めるとともに3~4キロ西の高須、古江地区(現西区)でも強い値が出て最大の古江東部は爆心地付近と同程度に達した。原爆投下後に「黒い雨」が降ったエリアで、雨どいにたまった土砂から特に強い放射線が確認された。

 一方で、調査班は測定した値から米科学者の談話に端を発する「70年生物不毛説」を否定した。4日付中国新聞は、「広島住んで害なし」の見出しで、そうした趣旨の都築教授の見解を大きく報じた。

 「生物不毛」が否定されても、原爆が街や市民に壊滅的被害をもたらすのに変わりはない。山崎さんは後に「原子兵器の禁止こそ今日人類のために最も急がなければならぬとりきめと思います」(54年の雑誌「婦人公論」の寄稿)と訴えている。(編集委員・水川恭輔)

(2024年9月4日朝刊掲載)

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