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連載・特集

『生きて』 ポプラ名誉会長 目黒俊治さん(1943年~) <2> 原爆

一家で疎開 危機逃れる

  ≪太平洋戦争のさなかの1943年6月、父恒一(こういち)さん、母シズエさんの長男として段原中町(現広島市南区)で生まれる≫

 戦争が激しくなり、家族と一緒におふくろの実家があった今の白木町(安佐北区)に疎開しました。原爆が落とされた時、おやじは広島市内の軍需工場で夜勤を終えてから、真面目じゃけえ朝一番の芸備線で疎開先に帰ってきた。その後の列車は、みんなやけどした人が避難してきた。おやじはすぐに親戚を捜しに市内に戻ったから、原爆手帳(被爆者健康手帳)を持っていました。まだ2歳かそこらで覚えちゃおらんが、後から聞いた話です。

 おやじは戦後に市内でサラリーマンをやったけど、首になった。軍人で米国の捕虜になったおやじの弟が、共産党員になったあおりでレッドパージされた。おやじが元気だったのはそこまでで、体が弱くなった。原爆と関係があったのかもしれないけど、そんなふうには言わなかった。私の6歳下の妹は被爆2世だったから、両親は結構気を使っていました。

 ≪一家は今の新天地(中区)に移り、49年に酒のつまみを売る大黒屋(後の大黒屋食品)を開いた≫

 三川町(現中区)の工場で製造していました。よその商品も卸していたんですけど、おふくろは「自分のところで作って売らないといけない」という考えだったんですよね。工場では、おばちゃんたちがポテトチップスを作りよった。えびせんべいはよく売れたね。

 今でも強烈に覚えているのが灰の層です。新天地の店を建てる時、柱なんかを立てるために1メートルくらい下を掘ると、ずっと灰になっとるんですよ。黒い焼け跡。要するに原爆の時に焼けたんですよね、全部。「ああ、ここでみんな死んだんだな」と子ども心にびっくりした。新天地の店は小さかったので、その後、流川へ移りました。

(2024年9月4日朝刊掲載)

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