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連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第3部 他紙の原爆記事 <上> 長崎

「検閲」言及 唯一の違反

 連合国軍総司令部(GHQ)による占領期の検閲資料を所蔵する米メリーランド大プランゲ文庫。保存のため日本の国立国会図書館がマイクロフィルムに写した際、「未整理」として除外された資料が1万5千件余りある。同文庫が2014~15年、デジタル化したが、研究者もほとんど手を付けていない資料である。その中に検閲処分を受けた他紙の原爆関連記事が見つかった。事例を報告する。

 「自分を含め、未整理の資料を本格的に調査した例はないのではないか」。占領期の検閲に詳しい早稲田大の山本武利名誉教授(メディア史)は言う。

 筆者は、中国新聞と、その関連会社が1946年に創刊した夕刊ひろしまへの検閲実態を検証するため「未整理」資料のリストにも当たった。ほとんどの記事は他紙。散見される原爆関連を併せてチェックした。まず広島と同じく原爆が投下された長崎の地元紙を見る。

 現在の長崎新聞は、検閲が実施されていたさなかの46年12月、長崎日日新聞と長崎民友新聞、佐世保時事新聞、新島原新聞の4紙に分かれた。「未整理」資料を調べると、プレスコード(報道準則)違反と指摘された原爆関連は、4紙のうち長崎日日の1本だけだった。

「許可あり次第」

 「著作に没頭の永井氏」(48年7月31日付)との見出し。爆心地から700メートルの長崎医大(現長崎大医学部)で被爆した永井隆助教授が病床で「原爆病概論」を執筆したことを紹介する内容だ。「検閲許可あり次第昭和書房から二百五十七頁の単行本として公にされる予定」(原文ママ)とある。

 資料には「検閲」に言及したことが公表禁止の理由と明記されていた。GHQは、報道で検閲自体に触れることを禁じていたからだ。

 中国新聞でもプレスコード違反とされた原爆関連記事は1本だけ。広島市長が、海外へ復興支援を呼びかける許可をマッカーサー米元帥に要請したい、との短い記事(46年7月22日付)。記載を禁じられていた「マ司令部」(GHQ)と記述したのが理由だ。

 いずれも内容を問題視されたわけではない。違反の「指針」に触れる言葉を使ったためで、いわば形式的なものである。

 長崎新聞関係に対する、一般記事も含めた全体の検閲状況はどの程度だったのか。

 山本氏が理事長を務めるNPO法人インテリジェンス研究所(東京)の「20世紀メディア情報データベース」で調べた。国会図書館がマイクロ化した1945~49年の新聞、雑誌などの発行日や見出し、検閲の有無などを網羅する。「未整理」資料の情報は含まれていない。

際立つ緩い監視

 長崎新聞関係では、新島原を除く3紙の情報が収録されていた。計8万9144本の記事のうち検閲対象となっていたのは32本(0・04%)。原爆関連はなかった。

 一方の中国新聞。掲載を確認できた記事9万7225本のうち、少なくとも7万4126本(76・2%)が検閲を受けていた。原爆関連は1505本で、その45・1%が検閲対象だった。

 いずれも、多くの地方紙と同じく発行後にチェックを受けた事後検閲。担当したのも同じGHQ傘下の民間検閲局(CCD)第三支局(福岡市)である。長崎側の検閲の少なさが際立つ。これほどの落差がなぜ生じたのか。理由を示す資料は今のところ確認できていない。 (この連載は客員編集委員・籔井和夫が担当します)

プランゲ文庫
 GHQが日本全国から提出させた膨大な出版物を、戦史編さんに当たったゴードン・プランゲ博士が米メリーランド大に搬送して保管。新聞、雑誌、図書・パンフレットなど多岐にわたり、日本に現存しないものも多い。国立国会図書館は1992年、マイクロフィルム化に着手。新聞についてはマイクロフィルムのリール3826本、推定170万ページの紙面、推定2600万本の記事が同館憲政資料室に収められている。「未整理」の検閲資料など約1万5千件はプランゲ文庫が2014~15年にデジタル化。現在、同館で閲覧できる。

(2024年9月5日朝刊掲載)

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