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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月5日 母・姉亡くし原爆孤児に

 1945年9月5日。広島県北の新庄村(現北広島町)の親戚宅に身を寄せていた飯田稔子さん=当時(25)=が息を引き取った。被爆後、放射線障害の症状に苦しんでいた。4日に、やはり体調を崩した長女真基子ちゃん=同(4)=が先立った。夫は沖縄戦で6月に戦死。4人家族で、当時3歳だった長男国彦さん(82)=東広島市=が1人残された。

 母子3人は広島市水主町(現中区)の母の実家で被爆した。爆心地から約900メートル南西で、家屋は倒壊。稔子さんと真基子ちゃんに目立ったけがはなかったが、その後、発熱して髪が抜け落ち、皮膚が変色した。同じ症状で寝込んでいた国彦さんは後に「2人とも足から壊死(えし)して亡くなった」と聞いた。

 国彦さん自身は命をつないだが、孤児となった。養ってくれた祖母とも就学前に死別。叔父夫妻に育てられ、母が恋しくなる記憶は遠ざけた。ただ、今になっても人生を一変させた8月6日を不意に思い出す。「突然子ども返りして『お母ちゃん、助けて』と声が出ることがあります」

 9月5日付英紙デイリー・エクスプレスは1面に「原爆の疫病」の大見出しを掲げた。3日に広島市内に入ったバーチェット記者のルポを載せ、「無傷だった人々が死んでいる」と伝えた。出血の症状や放射線が原因と話す現地の声も報じた。

 米国の原爆開発計画を指揮したグローブス少将は先んじて放射線の影響を打ち消す見解を示していた。「原爆の放射能がもとで死者が出ているという日本の報告は全くのプロパガンダだ」「原爆は非人道兵器ではない」(8月31日付ニューヨーク・タイムズ)。だが、現地を見れば、実態は明らかだった。(山下美波、編集委員・水川恭輔)

(2024年9月5日朝刊掲載)

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