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『生きて』 ポプラ名誉会長 目黒俊治さん(1943年~) <3> 少年時代

長男の責任一身に負う

  ≪広島市中区の幟町小に通った≫

 私以外、ほとんどの子が被爆していた。みんな朝礼なんかするとバタバタ倒れていた。かわいそうだった。当時は知らなかったけど、(「原爆の子の像」のモデルとなった)佐々木禎子さんは1学年上でね。私も疎開していなかったら、同じことになっていたかもしれない。

 おやじ(恒一(こういち)さん)は体が弱いし、おふくろ(シズエさん)は商売で忙しい。だから妹の面倒は私がようみていた。銭湯も何もかも全部連れていった。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」言うて、べったり引っ付いて。かわいかったよ。

 ≪仕事で忙しい両親に代わり、父方の祖母つねよさんに育てられた。幟町小から国泰寺中に進んだ≫

 会津若松(福島県)出身のおばあさんは、尋常小学校の先生だった人。教育熱心だった。国泰寺中の英語の教科書を声に出して読みよったくらいだから。私は発音が悪いと言われた。おばあさんの英語はズーズー弁でびっくりしたけど。

 おばあさんは3人の息子を産んで、一番頭の良かった真ん中の子が戦死したんよ。私がその代わりみたいな感じだったから、猫かわいがりの中に厳しさもあった。まあ、でも「ばあさん育ちは三文安」よ。ちいと間が抜けとったというか、のんびりしとった。

 家を守るという考えが強烈な家庭だった。おやじはあまり競争心がなかったね。優しいけど、頼りないと言えば頼りない。その分、おふくろは長男の私を当てにしていた。やれ「家を守れ」「責任がある」と、おふくろとおばあさんに鍛えられた。将来は、基本的には酒のつまみを売る商売を継ぐしかないと思っていた。倒産しそうになって苦しむのを見てきたから。その時その時に言われたことを何でもやって、素直なもんだった。

(2024年9月5日朝刊掲載)

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