[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月6日 被爆1ヵ月 苦境の市民
24年9月6日
1945年9月6日。中国新聞は「罹災(りさい)者達の心境」との見出しで、被爆1カ月を迎える市民3人の声を伝えた。
1人目は「焦土に仮屋を建てて住む人」。生活の見通しが立たない苦境を嘆いた。「働かうにも工場は休みだし、職のあるものでも材料がないので毎日ブラブラしてゐます。これが一番いけないのでせう、身体の調子が悪くなる一方です」
放射線障害を知らないためか、同じく焼け跡に住む人の間で「湿度が高い故か」下痢が相次いでいるとも。「災害以来一ヶ月間にローソク配給はわづか一本ですから夜はやりきれません」と電灯の復旧を切望した。
「半壊の家に住む人」は雨露をしのげないとこぼし、台風を心配。「いつ倒壊するかもわからないので、ビクビクものです」。「近郊に避難した人」は、広島市内への通勤手段に困ると訴えた。
復興を指揮するはずの行政機関も被害は甚大だった。広島県は6日、庁舎を失ったため移っていた府中町の東洋工業で職員の慰霊祭を開催。7日までに606人の犠牲者を確認し、最終的には1141人に上った。
米科学者に端を発する「生物70年不毛説」が街の再建に影を落としていた。県は一時、「原子爆弾のもつ害毒が相当期間残存することを考慮に入れて爆心区域一帯を空地とする」(2日付中国新聞)計画を検討した。
その後、不毛説を否定する日本の専門家の見解や調査結果が出ていた。高野源進知事は6日、「原子爆弾落下地区のその後の被害は大体ないということに結果が一致したので県としても今後の市再建方針を早急に決めねばならない」と語った。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月6日朝刊掲載)
1人目は「焦土に仮屋を建てて住む人」。生活の見通しが立たない苦境を嘆いた。「働かうにも工場は休みだし、職のあるものでも材料がないので毎日ブラブラしてゐます。これが一番いけないのでせう、身体の調子が悪くなる一方です」
放射線障害を知らないためか、同じく焼け跡に住む人の間で「湿度が高い故か」下痢が相次いでいるとも。「災害以来一ヶ月間にローソク配給はわづか一本ですから夜はやりきれません」と電灯の復旧を切望した。
「半壊の家に住む人」は雨露をしのげないとこぼし、台風を心配。「いつ倒壊するかもわからないので、ビクビクものです」。「近郊に避難した人」は、広島市内への通勤手段に困ると訴えた。
復興を指揮するはずの行政機関も被害は甚大だった。広島県は6日、庁舎を失ったため移っていた府中町の東洋工業で職員の慰霊祭を開催。7日までに606人の犠牲者を確認し、最終的には1141人に上った。
米科学者に端を発する「生物70年不毛説」が街の再建に影を落としていた。県は一時、「原子爆弾のもつ害毒が相当期間残存することを考慮に入れて爆心区域一帯を空地とする」(2日付中国新聞)計画を検討した。
その後、不毛説を否定する日本の専門家の見解や調査結果が出ていた。高野源進知事は6日、「原子爆弾落下地区のその後の被害は大体ないということに結果が一致したので県としても今後の市再建方針を早急に決めねばならない」と語った。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月6日朝刊掲載)