ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第3部 他紙の原爆記事 <中> 西日本
24年9月6日
原爆や天皇 3本で違反
長崎では戦前からブロック紙の西日本新聞(福岡市)も発行されていた。同社コーポレートサイトにある社史の1945年の欄に「他紙が長崎市外に避難する中で、西日本新聞は被災地にとどまって報道を続けた結果、長崎県下でも第一紙になった」とある。同時に原爆で殉職する記者も出た。
連合国軍総司令部(GHQ)の検閲資料が残るプランゲ文庫の「未整理」資料には西日本のものもあった。プレスコード(報道準則)違反で公表禁止となったのは3本だった。
最初の1本は漫画。その検閲文書で、45年10月15日付で掲載しようとした「偽りの原爆(Atomic Bomb Untruth)」の会話に違反箇所があると指摘されていた。しかし漫画自体は見当たらず、具体的な違反内容は不明。西日本に問い合わせたが、紙面に掲載していないため手がかりはないという。
2本目は、昭和天皇が47年12月に戦後初めて広島を訪問した直後、AP通信東京特派員が論評した記事。西日本と東京新聞に特約記事として配信された。
訪問を受けた広島市民の反応を「市民の心の中には今日なお天皇が『第一』のものであったことは明らか」と指摘。「天皇とともにある広島市民の喜びは彼らの不幸を完全に打ち消してしまった」とし、天皇制は維持されるとの見方を示した。
占領成否懸念か
記事のどの部分が違反とされたのか。理由を記した検閲文書は見つからなかった。
被爆関係資料を研究している宇吹暁・元広島女学院大教授は「検閲担当が、日本の民主化という占領政策の成否を問われることを懸念したのかもしれない」とみる。
3本目は「ウラン鉱が九州で発見された」との記事(47年12月2日に事前提出)。その英訳資料に「SUPPRESS」(公表禁止)のスタンプが押されていた。これも検閲文書は見当たらない。
場所は福岡市の博多湾に面した長垂(ながたれ)山の地下にあるトンネル。付近で古くから産出される雲母に放射性のリチウムが含まれていたことから、戦時中は陸軍が軍事利用目的で採掘していたという。原爆製造につながる情報と判断されたのかもしれない。
未掲載の記事も
一方、公表禁止になったかどうか分からないものの、未掲載の記事が1本あった。米国の通信社の原稿(48年2月2日事前提出)。検閲を受けた記事に処分の結果を示す記載はなく、検閲文書もない。実際の処分が掲載の可否に影響した可能性はある。
その記事は、41年の真珠湾攻撃直後から45年9月まで神戸市近郊に抑留されたというベルギー人の元京都大留学生を紹介した内容。帰国後、医師兼牧師となり、被爆した広島のために病院と教会を建てようとしている、とあった。
この人は当時33歳。中国新聞を当たってみたが、関連する記事はなかった。検閲を受けた記事にあった名前を同大に照会したが、在籍を証明できる資料はないとの回答だった。
(2024年9月6日朝刊掲載)