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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月8日 ジュノー博士 広島入り

 1945年9月8日。赤十字国際委員会(ICRC、本部スイス・ジュネーブ)の駐日首席代表で医師のマルセル・ジュノー博士(61年に57歳で死去)が東京から広島入りした。医薬品や消毒薬、包帯など計約15トンを届けるためだ。

 著書によれば、先に広島市内に入った駐日代表部職員フリッツ・ビルフィンガーさんから2日に受け取った電報で状況を把握。連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥の部下に掛け合い、物資の提供を受けた。広島に調査に向かう米軍機に同乗し、13日まで滞在した。

 半壊した学校の救護所を訪れると、「大雨で、病人の部屋は雨がそのまま叩きつけていた」(手記「広島の惨虐」)。包帯に大きな布が使われ、手当ては初歩的で傷口にハエがたかっていた。広島赤十字病院は血液検査の材料が不足し、血液障害の治療に重要な輸血が十分進んでいなかった。

 救援物資は広く行き渡り、数万人の被爆者が救われたともいわれる。当時15歳の切明千枝子さん(94)=安佐南区=も、その一人だ。「外国の人が薬を持って来たらしい」と人づてに聞いた母が近くの救護所から錠剤を持ち帰ってきた。

 広島県立広島第二高等女学校(現皆実高)4年で爆心地の南東約1・9キロで被爆。髪が抜け、歯茎には血がにじんだ。同じ症状が出て亡くなる人が相次ぎ、医師から「血便が出たら、おしまい」と言われていた。切明さんは「薬と母の看病のおかげで、徐々に元気になりました」と感謝する。

 回復例があった一方、原爆はあまたの命を奪い、被爆者の心身に苦しみをもたらし続けた。ジュノー博士は手記で「原子力を兵器として用いる事を放棄しなさい」と訴えている。(山本真帆)

(2024年9月8日朝刊掲載)

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