『生きて』 ポプラ名誉会長 目黒俊治さん(1943年~) <4> 家業の手伝い
24年9月7日
飲み屋街回りご用聞き
≪舟入高時代から、病弱な父に代わり家業の珍味販売を手伝い、飲食店を回った≫
17、18歳の頃から手伝いました。流川の飲み屋はオープン前におつまみを仕入れますからね。ご用聞きや集金に行かされました。おやじ(恒一(こういち)さん)は病気がちだったから、おふくろ(シズエさん)がカバーさせたんだろうな。不満というより、何とかせにゃいけんという義務感みたいなものが強かったね。
夕方に背広を着て飲み屋を回るから、不良だってよく言われた。同級生にそんなのやるのはおらんかった。初めは自転車で単車も買った。18歳で免許を取ってね。飲み屋にはボンボン扱いされることはないけど、ようかわいがってもらった。一生懸命やりよるから。店が閉まる休みの日はうれしかったよ。
広島大を出て学校の先生になるのが、当時の舟入高ではエリートコースでした。私はどうにもならんで早く諦めましたよ。でも人には負けたくない、偉くなりたいという気はあったから、大卒という肩書は欲しかったね。大変だったけど。
≪関西大文学部へ進んだ≫
大阪府吹田市の寮に入りましたが、大学にはほとんど行けませんでした。家が忙しく勉強どころじゃなかったんです。でも卒業はしたいから、どうしても通わんといけんかった。私の家の事情を分かっとる友達に代返してもらうというのもやったね。当時の大学は、よう4年間で卒業させてくれたよ。通う汽車では時間が十分あるから、小説も書いていたんです。ものにならんかったけど。日本文学の文豪に憧れとったんですよね。一番好きなのは太宰治。
せっかくだから教員免許も取った。中学の社会の先生になろうと思ってね。採用試験は駄目だった。受かっても教員にはなれんと思っとったけどね。実家から「卒業したらすぐ帰ってこんと金は送らん」と言われていた。おふくろがしっかりしとるんじゃ、そのへんは。
(2024年9月7日朝刊掲載)