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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月上旬 南方留学生の訃報届く

 1945年9月上旬。広島県久地村(現広島市安佐北区)の疎開先にいた当時19歳の栗原明子さん(98)=安芸区=の元に1通のはがきが届いた。被爆直後に広島文理科大(現広島大、中区)で共に野宿をした「南方特別留学生」サイド・オマールさん=当時(19)=の訃報。「原子爆弾の影響に違ひない」と記されていた。

 「大東亜共栄圏」建設を掲げた日本が、東南アジアから派遣させた南方特別留学生。今のマレーシア出身で広島文理科大に通っていたオマールさんは爆心地から約900メートルの興南寮で被爆し、大学構内で仲間たちと野宿を余儀なくされた。

 学徒動員先の東洋工業(現マツダ)で被爆した栗原さんも大手町(現中区)の自宅を焼かれ、大学に逃れた。「元気を出すんだよ」と留学生たちに励まされ、行方不明の父を一緒に捜した。食料も分け合った。ただオマールさんは、負傷者の救護に当たる中で自身も発熱していた。「私の母がハンカチをぬらし、横になったオマールさんの頭を冷やしていました」

 栗原さんは8月14日に留学生たちと別れ、疎開先へ向かった。オマールさんは終戦後に広島を離れ、帰国途上に京都市で亡くなった。病院の証明書では死亡日は9月3日だが、栗原さんに届いた同郷のアブドル・ラザクさん(2013年に88歳で死去)のはがきでは4日。「私も今セキを出して、とても苦しいです。多分オマル君のやうになるかも解りませんよ」と不安な心境も記されていた。

 被爆当時、広島文理科大には南方特別留学生が9人在籍。うち8人が被爆し、オマールさんとやはり同郷のニック・ユソフさん=当時(19)=が犠牲になった。栗原さんも9月上旬、発熱や脱毛など原爆放射線による急性障害に苦しんでいた。(山下美波)

(2024年9月7日朝刊掲載)

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