ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 連載を終えて <上> 検閲を恐れ 報道が萎縮
24年9月10日
昨年9月から今月まで3部にわたり連載した「ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード」。連合国軍総司令部(GHQ)による占領期の検閲資料3万件近くを検証し、実態を報告した。検閲が当時の原爆報道にどんな影響を与えたのか。現代の私たちがくむべき教訓は―。連載を終えるに当たって総括し、提言する。(客員編集委員・籔井和夫)
GHQは1945年9月、プレスコード(報道準則)を発令した。中国新聞と、その関連会社が46年に創刊した夕刊ひろしまへの検閲状況を調べると、プレスコード違反とされた原爆関連記事は各紙1本。筆者が本格的に調査を始めた当初の予想に反してあまりに少なかった。なぜなのか。
中国新聞で対象になったのは46年7月22日付のわずか12行の記事。広島市長が復興財源として義援金を海外にも呼びかけるためマッカーサー元帥に許可を願い出るとの内容。マッカーサー元帥の名前を出したことが理由だった。夕刊ひろしまでは、被爆当日に撮影された写真を初めて掲載した46年7月6日付の記事だけが違反となっていた。
検閲の目的には、戦後日本の民主化と言論統制という二つの側面があった。「違反記事が少ないという事実は、裏返せば検閲の効果がそれだけあったと言える」と、原爆史に詳しい宇吹暁・元広島女学院大教授はみる。占領期のメディアを研究する山本武利・早稲田大名誉教授は「GHQは、検閲をしながらその事実を日本国民に隠した。その陰湿なやり方にも注目すべきだ」と指摘する。
事後実施 要因か
占領期、報道現場にいた当事者は検閲をどう受け止めていたのか。中国新聞の先輩たちの証言が社史に残されている。
当時編集局長だった糸川成辰(しげとし)氏は「中国新聞八十年史」で「公然としての検閲はなく、私のところへは具体的に何も言ってこなかった」と言う。「私個人の気持ちでは、非常に自由な新聞を作れると思い、プレスコード順守の方針でやっていた」と振り返った。
実際、中国新聞は48年、社是に「プレスコードを確守する」と掲げた。
違反記事が少なかった背景に、中国新聞など多くの地方紙に対して行われた事後検閲が一因との見方もある。全国紙などの事前検閲に比べ、GHQの要求にすぐに対応できないため、必要以上に自粛せざるを得なかったというのだ。
占領期に論説委員を務めた松江澄(きよし)氏がそうした趣旨の発言をしている。「中国新聞労組五十年史」(96年発行)にある座談会形式での回顧録で、NHKの「時事解説」番組に出演した際に事前検閲を受けた経験から、事後検閲との違いを指摘した。
「NHKに出演する場合はGHQの検閲要員が放送の現場まで出向いて事前に検閲する。東洋工業(現マツダ)のストライキに触れようとすると消せと言うから消すしかない」「事後検閲が本当は一番恐ろしいんですよ。…下手したら、後でこっぴどくやられる」
復興記事が中心
当時の報道は戦後復興が中心で、原爆投下を批判するような記事は少なく、小さな扱いにとどまったのが実情ではあった。被爆者の健康への影響を伝える記事も断片的な内容が多かった。
原爆報道に対する検閲の影響は、違反記事の件数だけで評価はできまい。実態を追うほど、資料が残されていないという壁に何度もぶち当たった。散逸したのか、あるいは隠されたのか。そうした「空白」がこれまでも、そして、これからも検証の道を阻む。
検閲はもちろん、米国の憲法でも日本国憲法でも認められていない。その検閲が日本に民主化を促す手段として用いられたのは大きな矛盾である。
近年の新聞報道への批判に政治への「忖度(そんたく)」との言葉が目立つ。占領期の「自粛」の影が尾を引いているのを見るようだ。矛盾をはらんで出発した日本の戦後民主主義は80年を迎えようとしている。検閲がまかり通るような時代を再び許してはならない。
(2024年9月10日朝刊掲載)
GHQは1945年9月、プレスコード(報道準則)を発令した。中国新聞と、その関連会社が46年に創刊した夕刊ひろしまへの検閲状況を調べると、プレスコード違反とされた原爆関連記事は各紙1本。筆者が本格的に調査を始めた当初の予想に反してあまりに少なかった。なぜなのか。
中国新聞で対象になったのは46年7月22日付のわずか12行の記事。広島市長が復興財源として義援金を海外にも呼びかけるためマッカーサー元帥に許可を願い出るとの内容。マッカーサー元帥の名前を出したことが理由だった。夕刊ひろしまでは、被爆当日に撮影された写真を初めて掲載した46年7月6日付の記事だけが違反となっていた。
検閲の目的には、戦後日本の民主化と言論統制という二つの側面があった。「違反記事が少ないという事実は、裏返せば検閲の効果がそれだけあったと言える」と、原爆史に詳しい宇吹暁・元広島女学院大教授はみる。占領期のメディアを研究する山本武利・早稲田大名誉教授は「GHQは、検閲をしながらその事実を日本国民に隠した。その陰湿なやり方にも注目すべきだ」と指摘する。
事後実施 要因か
占領期、報道現場にいた当事者は検閲をどう受け止めていたのか。中国新聞の先輩たちの証言が社史に残されている。
当時編集局長だった糸川成辰(しげとし)氏は「中国新聞八十年史」で「公然としての検閲はなく、私のところへは具体的に何も言ってこなかった」と言う。「私個人の気持ちでは、非常に自由な新聞を作れると思い、プレスコード順守の方針でやっていた」と振り返った。
実際、中国新聞は48年、社是に「プレスコードを確守する」と掲げた。
違反記事が少なかった背景に、中国新聞など多くの地方紙に対して行われた事後検閲が一因との見方もある。全国紙などの事前検閲に比べ、GHQの要求にすぐに対応できないため、必要以上に自粛せざるを得なかったというのだ。
占領期に論説委員を務めた松江澄(きよし)氏がそうした趣旨の発言をしている。「中国新聞労組五十年史」(96年発行)にある座談会形式での回顧録で、NHKの「時事解説」番組に出演した際に事前検閲を受けた経験から、事後検閲との違いを指摘した。
「NHKに出演する場合はGHQの検閲要員が放送の現場まで出向いて事前に検閲する。東洋工業(現マツダ)のストライキに触れようとすると消せと言うから消すしかない」「事後検閲が本当は一番恐ろしいんですよ。…下手したら、後でこっぴどくやられる」
復興記事が中心
当時の報道は戦後復興が中心で、原爆投下を批判するような記事は少なく、小さな扱いにとどまったのが実情ではあった。被爆者の健康への影響を伝える記事も断片的な内容が多かった。
原爆報道に対する検閲の影響は、違反記事の件数だけで評価はできまい。実態を追うほど、資料が残されていないという壁に何度もぶち当たった。散逸したのか、あるいは隠されたのか。そうした「空白」がこれまでも、そして、これからも検証の道を阻む。
検閲はもちろん、米国の憲法でも日本国憲法でも認められていない。その検閲が日本に民主化を促す手段として用いられたのは大きな矛盾である。
近年の新聞報道への批判に政治への「忖度(そんたく)」との言葉が目立つ。占領期の「自粛」の影が尾を引いているのを見るようだ。矛盾をはらんで出発した日本の戦後民主主義は80年を迎えようとしている。検閲がまかり通るような時代を再び許してはならない。
(2024年9月10日朝刊掲載)