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連載・特集

『生きて』 ポプラ名誉会長 目黒俊治さん(1943年~) <5> 小売業への転換

イズミの1号店で販売

  ≪関西大卒業後の1966年、実家が営む大黒屋食品に入った≫

 おやじ(恒一(こういち)さん)は体が弱かったから基本的におふくろ(シズエさん)が仕切っていました。私は入社してから大学に行かんでようなって、専業できたから楽になったよ。大学生と商売と両方やってたからね。

 ≪病弱な父に代わり、72年に29歳で社長に就任した≫

 その頃には流川や薬研堀の飲み屋に、おつまみだけでなく酒も卸すようになっていた。あの辺りはずっと飲み屋街が続いていて、今より店が多かった。懐かしいね。でも飲み屋の現金払いが悪くて行き詰まった。

 飲み屋というのは常に掛け売りでね。盆と正月にまとめて払えばええとか、そんな世界でした。それじゃ資金繰りできん。もう必死だった。現金を早くもらえるようにだいぶ頑張ってみたけど、なかなかくれんでね。盆や年末に稼ぐだけ稼いで現金持って逃げるとかね。私も若かったから、金をもらえずに続けるのがばからしくなった。

 ≪流川町(現広島市中区)の店の近くに61年、いづみ(現イズミ)初のスーパー、八丁堀店がオープンした≫

 イズミが八丁堀店を出した時に、酒とおつまみを取り扱ってもらったらよう売れてね。その後、イズミの他の店や百貨店にもテナントとして入った。だんだん小売業になっていったんよね。それにしてもイズミさんには驚かされた。八丁堀店はびっくりするほど人が集まってよう売れた。当時、スーパーは「スッと出てパッと消える」と言われとった。百貨店からばかにされよったけえね。

 「イズミにのめり込んでええんか」ってよく言われた。ましてコンビニは特殊な商売だった。スーパーもコンビニも、こんなに世界中で伸びる商売になるとは思わんかったよね。その後、イズミ創業者の山西義政さんが、通商産業省(現経済産業省)主催の米国視察に誘ってくれた。米国のコンビニを見てびっくりしたねえ。

(2024年9月10日朝刊掲載)

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