[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月9~10日 廃虚の街 絵筆で記録
24年9月10日
1945年9月9日。日本画家の高増径草さん(本名啓蔵、85年に84歳で死去)は、広島市中心部で絵筆を握った。がれきが広がる焦土、焼け残ったビルや樹木…。米軍の原爆投下で廃虚と化した街の姿を墨やオイルパステルで描いた。
当時、広島県立聾(ろう)学校(現中区の広島南特別支援学校)の美術教諭。8月14日にも学校や家の様子を見るために県北の疎開先から市内に入っていた。再び向かったのは、「惨状を永久に残しておこう」との意思からだった。
幼い頃に聴覚を失った高増さんは、相手の口の動きを読み取り、発声できたが、意思疎通を補うため、8月と同じく9歳の長男文雄さんを伴った。
文雄さんは9日の様子を日記につづっている。「広島えきの絵をお父さんが書かれました。それから四方の絵を書いてゐられるとアメリカの新聞社の記者がお父さんの所へ来て、三べんしゃしんを取って、アメリカ式のけい礼をして、あちらへ行きました」
撮影者は米海軍の従軍カメラマンだった故ウェイン・ミラー氏。中心部で八丁堀方面を描く高増さんを写真に収めた。
高増さんは10日も市内で絵を描いた。原爆資料館に遺族から寄贈された「原爆の絵」21点と、2015年に亡くなった文雄さんの日記が残る。高増さんの孫で文雄さんの長男哲也さん(60)=横浜市=は「人間同士の争いによって、祖父の絵のような惨状を引き起こしてはならない」。
同じ時期、米国の原爆開発計画の副責任者、ファーレル准将が率いる「マンハッタン管区調査団」も広島に入っていた。9、10日に陸軍病院などに収容された被爆者たちを調査した。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月10日朝刊掲載)
当時、広島県立聾(ろう)学校(現中区の広島南特別支援学校)の美術教諭。8月14日にも学校や家の様子を見るために県北の疎開先から市内に入っていた。再び向かったのは、「惨状を永久に残しておこう」との意思からだった。
幼い頃に聴覚を失った高増さんは、相手の口の動きを読み取り、発声できたが、意思疎通を補うため、8月と同じく9歳の長男文雄さんを伴った。
文雄さんは9日の様子を日記につづっている。「広島えきの絵をお父さんが書かれました。それから四方の絵を書いてゐられるとアメリカの新聞社の記者がお父さんの所へ来て、三べんしゃしんを取って、アメリカ式のけい礼をして、あちらへ行きました」
撮影者は米海軍の従軍カメラマンだった故ウェイン・ミラー氏。中心部で八丁堀方面を描く高増さんを写真に収めた。
高増さんは10日も市内で絵を描いた。原爆資料館に遺族から寄贈された「原爆の絵」21点と、2015年に亡くなった文雄さんの日記が残る。高増さんの孫で文雄さんの長男哲也さん(60)=横浜市=は「人間同士の争いによって、祖父の絵のような惨状を引き起こしてはならない」。
同じ時期、米国の原爆開発計画の副責任者、ファーレル准将が率いる「マンハッタン管区調査団」も広島に入っていた。9、10日に陸軍病院などに収容された被爆者たちを調査した。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月10日朝刊掲載)