ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 連載を終えて <下> 検閲資料 日本で保存を
24年9月11日
連載のため調査した米メリーランド大プランゲ文庫には、戦後の日本各地で発行された印刷物の多くが所蔵されている。連合国軍総司令部(GHQ)の検閲対象になったものばかり。占領期の検閲について調べるとき、真っ先に当たらなければならない資料である。
本格的に調査を始めた2年近く前、山本武利・早稲田大名誉教授(メディア史)にアドバイスを求めた際、逆に問いかけられた。
「プランゲ文庫の資料の数々は戦後の日本人が生み出した貴重な財産です。いつまでも米国で所蔵されていていいのでしょうか。日本に移すべきではありませんか」
資料の多くはマイクロフィルム化され、日本の国立国会図書館で見ることができる。しかし、現物の資料にはフィルムにはない迫力がある。日本人の発言をGHQが抑圧した跡が生々しい。
プランゲ文庫は、メリーランド大に教授として在籍したままGHQ参謀第2部戦史室に勤務したゴードン・プランゲ博士にちなんで名付けられた。1949年10月の検閲終了後、博士が資料の歴史的重要性を認識し、同大に移した。当時の米軍が使っていた木箱にして約600個に上ったという。
現物 国内に2割
長らく死蔵されていたようだが78年9月、同大が正式にプランゲ文庫と命名し、保存に力を入れ出した。紙の資料に傷みが目立つようになり、92年から同大と国会図書館が共同で資料のマイクロ化などに取り組んだ。
その種類は新聞や雑誌、図書、パンフレット、写真など多岐にわたり、膨大だ。新聞だけでもタイトル数は1万8047、紙面の数は推定170万、記事数は同2600万。雑誌類のタイトル数も同1万3787に上る。
しかし、国会図書館が所蔵している現物は全体の2割に過ぎない。米国に行かなければ残りを見ることはできない。
民主主義の証人
戦後、再出発を目指し動き始めた日本の各地で青年団体や労働組合などが生まれ、同人誌や機関紙を発行した。婦人誌も誕生した。新聞は各地で創刊され、新生日本の針路を模索した。プランゲ文庫に残る当時の出版物は、まさに「戦後民主主義の生き証人」(山本氏)と言えよう。
約2年間、3万件近くの資料を見続けてきて思う。プランゲ文庫はやはり日本で保存されるべきだと。
メリーランド大の事情もあるから資料の返還は簡単な話ではない。すぐには実現しないだろう。
全面返還は難しくても当面、日米共同の事業として順次日本各地で資料を紹介する企画展は可能ではないか。展示物の中心を開催地別に構成することもできる。
その実績はある。現物資料約600点が98年12月~99年8月、一時里帰りした。早稲田大と立命館大、原爆資料館(広島市中区)で展示され、計7万人超が来場した。
来年は戦後80年。GHQによる検閲が行われていた事実を振り返り、問い直したい。戦後の日米関係の出発点を見詰めたい。私たちが決して手放してはならない民主主義のありようを熟考する機会になるはずだ。(客員編集委員・籔井和夫)
◇
資料調査には広島大平和センターのファンデルドゥース瑠璃准教授(記憶学、社会心理、言説分析)の協力を得た。
(2024年9月11日朝刊掲載)
本格的に調査を始めた2年近く前、山本武利・早稲田大名誉教授(メディア史)にアドバイスを求めた際、逆に問いかけられた。
「プランゲ文庫の資料の数々は戦後の日本人が生み出した貴重な財産です。いつまでも米国で所蔵されていていいのでしょうか。日本に移すべきではありませんか」
資料の多くはマイクロフィルム化され、日本の国立国会図書館で見ることができる。しかし、現物の資料にはフィルムにはない迫力がある。日本人の発言をGHQが抑圧した跡が生々しい。
プランゲ文庫は、メリーランド大に教授として在籍したままGHQ参謀第2部戦史室に勤務したゴードン・プランゲ博士にちなんで名付けられた。1949年10月の検閲終了後、博士が資料の歴史的重要性を認識し、同大に移した。当時の米軍が使っていた木箱にして約600個に上ったという。
現物 国内に2割
長らく死蔵されていたようだが78年9月、同大が正式にプランゲ文庫と命名し、保存に力を入れ出した。紙の資料に傷みが目立つようになり、92年から同大と国会図書館が共同で資料のマイクロ化などに取り組んだ。
その種類は新聞や雑誌、図書、パンフレット、写真など多岐にわたり、膨大だ。新聞だけでもタイトル数は1万8047、紙面の数は推定170万、記事数は同2600万。雑誌類のタイトル数も同1万3787に上る。
しかし、国会図書館が所蔵している現物は全体の2割に過ぎない。米国に行かなければ残りを見ることはできない。
民主主義の証人
戦後、再出発を目指し動き始めた日本の各地で青年団体や労働組合などが生まれ、同人誌や機関紙を発行した。婦人誌も誕生した。新聞は各地で創刊され、新生日本の針路を模索した。プランゲ文庫に残る当時の出版物は、まさに「戦後民主主義の生き証人」(山本氏)と言えよう。
約2年間、3万件近くの資料を見続けてきて思う。プランゲ文庫はやはり日本で保存されるべきだと。
メリーランド大の事情もあるから資料の返還は簡単な話ではない。すぐには実現しないだろう。
全面返還は難しくても当面、日米共同の事業として順次日本各地で資料を紹介する企画展は可能ではないか。展示物の中心を開催地別に構成することもできる。
その実績はある。現物資料約600点が98年12月~99年8月、一時里帰りした。早稲田大と立命館大、原爆資料館(広島市中区)で展示され、計7万人超が来場した。
来年は戦後80年。GHQによる検閲が行われていた事実を振り返り、問い直したい。戦後の日米関係の出発点を見詰めたい。私たちが決して手放してはならない民主主義のありようを熟考する機会になるはずだ。(客員編集委員・籔井和夫)
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資料調査には広島大平和センターのファンデルドゥース瑠璃准教授(記憶学、社会心理、言説分析)の協力を得た。
(2024年9月11日朝刊掲載)