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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月11日ごろ ビール立ち飲みに行列

 1945年9月11日ごろ。できて間もない広島駅前(現広島市南区)の「ビール立飲所」に、行列ができていた。毎日新聞大阪本社写真部の山上圓太郎さんが、焼け跡のそばに立つ簡素な小屋を写真に収めている。

 先だって6日付中国新聞は「ビールの立飲み 戦災地広島で自由販売」の見出しで、広島駅前に立ち飲み所が開設予定と報じていた。「麦酒統制会社広島支店では、広島市の復興に努力する人々の労を犒(ねぎら)ふため…」(記事本文)

 中国新聞記者だった大佐古一郎さんが日記を基に著した「広島昭和二十年」(75年刊)によれば、被爆前は堀川町(現中区)のキリンビヤホール(現広島パルコ本館)が市内で配給される生ビールの約7割を扱っていた。流通が統制され、配給を受けるには「ビール券」が必要だった。

 自らも券を手にビヤホールに向かった。「午後五時前には百人以上もの行列ができる」(同書の45年5月4日の記述)。ビールは竹の筒に泡を盛り上げて注がれ、つまみに干しだらがついた。

 そのビヤホールも原爆で地下を除く内部が全焼。駅前と同じく9月に立ち飲み所ができた。戦前から広島の供給元だった麒麟(きりん)麦酒広島工場(府中町に38年完成)の「50年史」は、被爆後の市民がビールに求めたのは潤いだけではなかったと記す。「ビールを多量に飲んだ人は原爆症にかからないとウワサされた。ビールが体内の放射能を洗い出すというのである」

 ただ、被爆者は白血球の減少で免疫力低下がみられた。放射線医学が専門の東京帝国大(現東京大)の都築正男教授は「酒の飲みすぎも発病の縁となりやすい」(9月12日付中国新聞)と注意喚起。トマトやカボチャを挙げ、ビタミン豊富な野菜を薦めた。(編集委員・水川恭輔)

(2024年9月11日朝刊掲載)

広島駅前に出現した「ビール立飲所」の行列

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