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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月12日 「最大の原因は爆風と火災」

米准将、放射線を軽視

 1945年9月12日。米国の原爆開発計画の副責任者、ファーレル准将が東京都内で会見し、広島での調査結果に関する声明を発表した。「死傷者の最大の原因は爆弾の爆風と火災によるもの」と強調。放射線の影響を過小評価してみせた。

 ファーレル准将率いる「マンハッタン管区調査団」は先立つ8日に広島入り。進駐軍に危険を及ぼす障害の有無や被害状況を把握するためで、9、10日に病院や救護所を回り、収容されている被爆者を調べた。当時の毎日新聞に大野陸軍病院(現廿日市市)で東京帝国大(現東京大)の都築正男教授から説明を受ける一行の様子が載った。

 その中に、ジェームズ・ノーラン軍医(83年に67歳で死去)がいた。孫で米ウィリアムズ大の社会学者ジェームズ・ノーラン・ジュニア教授(61)によると、「原爆の父」と呼ばれた物理学者ロバート・オッペンハイマー氏らが開発拠点としたロスアラモス研究所に43年の創設時から参加。産婦人科医でオッペンハイマー氏の妻の出産に立ち会い、職員の医療や放射線の安全管理に関わった。

危険性を伝える

 45年7月16日の初の核実験では安全対策作りに携わり、事前に、計画の責任者のグローブス少将に放射線の危険性を伝えていた。一方で、広島に投下される原爆を出撃地のテニアン島に運ぶ任務も負ったという。ノーラン教授は「誰もが爆弾を造ることに頭がいっぱいで危険性への懸念は二の次だった。祖父や医師たちはかなりのジレンマを抱えていたと思う」。

 ノーラン軍医たち広島を訪れた調査団は持ち込んだ機器で残留放射線を検出。被爆者の白血球の激減も認めた。都築教授は原爆投下後に入市した市民の死亡例を挙げ、残留放射線の影響に関し「爆発後数日間内に爆心から半径五百メートル以内の土地で働いたものには、ある程度の傷害は与へられてゐるものと考へてよからう」(中国新聞5日付)との見解だった。

 だが、ファーレル准将は、非人道的との批判が必至の残留放射線の影響を声明で否定した。「(視察先の患者の症状は)地上に危険な放射線が沈着した結果ではない」。爆心直下を含め「測定可能な放射能は発見されなかった」とした。原爆放射線の影響は「黒い雨」など降下物によっても広域にもたらされ、内部被曝(ひばく)をはじめ今も未解明の点が残る。

「生涯悩ませた」

 ノーラン教授は2年前、毎日新聞の写真を裏表紙にした著書「原爆投下、米国人医師は何を見たか」を日本で刊行。放射線の危険性を事前に知りながら、原爆の開発と投下に関わった祖父の足跡を記した。「原爆は祖父を生涯深く悩ませた。私は原爆投下は必要なかったし、正当化もされないと考えている」と言い切る。

 ノーラン軍医は戦後、軍から離れてがんの研究と治療に専念した。日本での経験は語らなかったが、一度だけ広島と長崎について「想像を絶する惨状だった」と親族に話したという。(山本真帆)

(2024年9月12日朝刊掲載)

大野陸軍病院にて患者を診察する米国・マンハッタン管区調査団

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