『生きて』 ポプラ名誉会長 目黒俊治さん(1943年~) <7> 課題に直面
24年9月12日
便利屋に徹し品ぞろえ
≪1974年12月、流川町(現広島市中区)に開業したナイトショップポプラは課題に直面した≫
卵はスーパーのような10個入りだと売れないから、ばら売りした。珍しいから買ってくれるわね。スズムシやホタルも売った。「街にいないから置け」と言う人がおるんよ。セリみたいな野菜もね。飲み屋でちょびっと使えそうなものをね。新しい物をどんどん入れ、売れる物だけ残していってできたのがポプラの商品台帳よ。
売れずに在庫がものすごくたまってね。何とか処分せにゃいけんというんで大変だった。その代わり定価より高く売りよった。下着なんかも百貨店で買ってきて10%くらい高く売った。でも、お客は全然、抵抗感がなかった。夜に買えるし、百貨店まで行くのが面倒じゃもん。
小売業というのは安いか便利か楽しいかの三つ。その組み合わせで、どこへ焦点を置くかで商品台帳は変わるよね。コンビニは便利屋だから何でもなきゃいけんと考えた。当時はディスカウントのスーパーがはやって、百貨店の楽しさも人気があった。便利性で売るコンビニは一種独特だった。
≪コンビニの経営を巡り、家族とは意見が対立した≫
おふくろ(シズエさん)はコンビニには反対だった。「自分がやってきた商売をそのまま継げ」と。私は「そんな生産性の悪いことはやれん」と言って、ナイトショップポプラをつくった。けんかして、長いこと話もせんようになった。店の金も出してくれんでね。銀行に金を借りるにも女房に保証人になってもらった。あれで助かったよ。
ナイトショップポプラは掛け売りはせず、配達もしなかった。「こっちに店出せや」と言われて銀山町にも出店した。その後もどんどん店を出したんだけど、セブン―イレブンの出店のスピードはもっとすごかった。追い越すのは絶対無理だったけど、こっちも張り切った。
(2024年9月12日朝刊掲載)