[歩く 聞く 考える] 論説委員 田原直樹 戦争を見つめた少年兵
24年9月12日
恐怖・惨状の伝承 心情とともに
82年前の9月、大竹市にあった海兵団に15歳の西﨑信夫さんは第1期生として入る。その後、駆逐艦で太平洋へ。多くの兵士の最期を目撃する。敗戦後は復員や引き揚げる人々の悲惨に接する。
東京・平和祈念展示資料館の語り部として、鮮明な記憶を話していたが3年前に94歳で亡くなる。都内で講演した4日後だった。
同資料館で今、その歩みをたどる特別企画展が開催されている。「15歳少年兵の記憶 僕は、駆逐艦『雪風』から散っていく命を見た。」と題して。
兵士、強制抑留者、引き揚げ者に焦点を当て、労苦を伝える資料館。激戦に参加しただけでなく、復員・引き揚げ者輸送に当たった西﨑さんは、同館には貴重な存在だった。「さまざまな局面を目撃され、類いまれな経験をした方。証言も重かった」。学芸員の山口隆行さんは人物像を語る。
今回は語り部個人を取り上げた初の企画展。「多岐にわたる証言や日記、アルバムなどが残る西﨑さんだから開催できた」
西﨑さんにお目にかかったことはないが、資料館に立ち寄ったところ、広島・縮景園での記念写真が目に留まり、引き込まれた。
大竹の海軍特別年少兵第1期生が、跨虹(ここう)橋をびっしりと囲んでいる。あどけなさも残る少年たち。やがて多くが命を落とす。
断末魔と無念を、「生き残った者の使命」として西﨑さんは語り続けた。講演やメディアの取材も意欲的に受けた。その人が亡くなった今、体験と証言を後世へつなぐことは私たちの使命だろう。展示を見ながら思いを巡らせた。
「昭和の白虎隊」と呼ばれた海軍特別年少兵は、14、15歳を中堅幹部へと育成する制度。三重県生まれの西﨑さんは反対する母親を説得し、志願した。
修業アルバムの写真が海兵団員の日々を伝える。釣床(つりどこ)(ハンモック)で就寝し、普通学科授業のほかカッター漕(こ)ぎ、艦務実習、銃剣術、陸戦訓練があった。現在の東広島市八本松町で演習もした。
一方、寄贈された西﨑さんの日記に実態が浮かぶ。大竹市玖波の神社そばでの陸戦訓練、退団者や盲腸で死ぬ団員がいたことなど。著書「『雪風』に乗った少年」の一部もパネル展示。揺れた10代の心理がつづられている。
海兵団で鍛えられ、水雷学校を経て、魚雷射手として雪風に乗艦する。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などに参加。人間魚雷回天の試験発射にも。そして戦艦大和とともに沖縄水上特攻へ。大きな損傷を受けず雪風は幸運艦と呼ばれた。だが西﨑さんは水上特攻時、敵機の銃撃で脚に重傷を負う。
大和や空母信濃など多くの艦が目前で沈没し、大勢の最期を見届けた。西﨑さんが目撃した死者は計算上、1万人に達する。
敗戦にむなしさ、無常観を覚えたはずだが、雪風に残った。甲板長として復員・引き揚げ輸送に従事。赴いた旧満州(中国東北部)や南方で悲惨な状況を目にする。傷つき、着のみ着のままの人々や敵兵に暴行される女性たちも…。
15歳で大竹海兵団に入り5年。過酷な体験を重ね、数え切れぬほどの死、戦争のむごさを目の当たりにして帰郷した。記憶は西﨑さんから離れず晩年、語り部へ突き動かしたのではないか。
「体験を語り継ぐ情熱と誠意にあふれた方だった」。著書に編者として関わった小川万海子(まみこ)さん(東京都多摩市)は振り返る。
戦争は残酷で怖かった―という率直な語り口が印象に残る。水上特攻時、機銃を任されると恐怖心が殺意に変わったことも赤裸々に証言。「語られる話は武勇伝ではなく、『命の物語』でした」
小川さんは、東京都国立市に暮らす被爆者の体験を語り継ぐ伝承者を、20人育成した経験がある。
西﨑さんになり代わることはできないが、「人間性の骨格をなすもの、貫くもの、反戦の願いを伝えたい。朗読を交え、私らしい伝承の方法を模索する」という。
資料館の山口学芸員によると、大竹海兵団に学び、雪風に乗艦したことに西﨑さんは誇りを持っていた。一方で「思うところがあって戦友会にほとんど参加せず靖国神社にも行かなかった」。戦争を憎む故、戦闘を語り合って懐かしむ心境ではなかったのだろう。
体験を語る生前の映像や日記、写真などが企画展を開けるほど残る。とはいえ語り部個々の考えや心情を含め、受け継ぐことが求められる。そのためにもじっくりと触れることだろう。
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「15歳少年兵の記憶 僕は、駆逐艦『雪風』から散っていく命を見た。」は、東京・新宿の平和祈念展示資料館で10月14日まで。
(2024年9月12日朝刊掲載)