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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月13日 帰郷の児童 兄の死直面

 1945年9月13日。当時9歳で、大河国民学校(現広島市南区の大河小)4年の井上公夫さん(88)=西区=は約5カ月ぶりに広島駅にいた。同校児童約250人は4月から順次、広島県北の本田村(現庄原市)に集団疎開。この日戻り、駅前で解散式があった。

 「似島がすぐそこに見えた」。約10キロ南西の似島を遮る多くの建物が焼き尽くされていた。翠町(現南区)の自宅に戻ると、3歳上の兄功さんの姿はやはりなかった。

 市立中(現基町高)1年の功さんは8月6日、市中心部の建物疎開作業に動員されていた。上半身に大やけどを負い、広島赤十字病院に避難。近くにいた人に、自分の名前や住所を告げた。

 7日、その人からの知らせで家族が病院に向かうと、すでに息絶えていた。「顔のやけどは、家族でも本人かどうか分からないほどだったと。母が足の爪の形で『功じゃ』と確認したそうです。幼い時に、つんでいたから」

 井上さんは疎開先に届いたはがきで、その死を知った。兄が中学に進学する前は一緒に国民学校に登校し、海で泳いだ。「みんなの前では、泣かりゃあせん…」。夜ふとんに入った後、一人涙を流した。

 今、広島県動員学徒等犠牲者の会の理事を務め、毎月、原爆ドーム南に立つ動員学徒慰霊塔の清掃活動を続ける。先月、兄の死への弔意を記録した「香典帳」を原爆資料館に寄贈した。亡き父四郎さんが功さんについて「死シテ猶親ニ対シ孝ヲツクス」と書き込んでいる。そばにいた人に名前と住所を伝えたことで、遺体が家族の元に帰ったからだ。

 戦争が終わると、国民学校3~6年生対象の学童集団疎開の「解散」が進んだ。家族を奪われた児童が多数いた。(編集委員・水川恭輔)

(2024年9月13日朝刊掲載)

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