『記憶を受け継ぐ』 吉田章枝さん―頭蓋骨を抱き泣いた母
24年9月16日
父と姉妹が犠牲。私が支えて生きると誓った
吉田(旧姓林)章枝さん(95)は父と姉妹の3人を原爆で失いました。悲しみに暮(く)れながらも、母娘で支え合って生きました。被爆60年ごろから始めた証言活動に「自分たちと同じ思いをする人が再び出ないように」との願いを込めています。
1945年当時、両親と姉、妹の5人家族だった16歳の吉田さん。比治山高女(現比治山女子中高)の4年生でした。中国配電大洲製作所(現南区)に動員され、潜水艦(せんすいかん)の配電盤(はいでんばん)の部品造りを担当していました。
8月6日の朝も、二葉の里(現東区)の自宅を出て工場へ向かいました。父頼次郎(らいじろう)さん=当時(50)=が玄関先(げんかんさき)で見送ってくれました。「いつもなら父はまだ寝(ね)ている時間。虫の知らせなのか、あれが最後の会話になりました」
工場で作業を開始して間もなく、ピカッ、と猛烈(もうれつ)な光を感じ、机の下に身を隠(かく)しました。爆心地から約4キロ。しばらくして建物の外に視線(しせん)を向けると、やけどで溶(と)けたように垂(た)れた皮膚(ひふ)を引きずりながら逃(に)げる人たちの姿(すがた)が目に飛び込(こ)んできました。
同級生らと必死に逃げました。自宅からすぐの饒津(にぎつ)神社(現東区)にたどり着くと、避難者(ひなんしゃ)でいっぱい。そこで母の秋子(あきこ)さんと再会しました。全壊(ぜんかい)した自宅からはい出したといいます。
翌7日、広島城(現中区)本丸内の中国軍管区司令部で働いていた姉の涼枝(すずえ)さん=当時(19)=を捜(さが)そうと1人で向かいました。道端(みちばた)に黒く焼けた多数の遺体(いたい)が横たわっています。「不気味な静けさと、動いているものが何もない怖さ」で足がすくみ、引き返しました。
妹の幸枝(ゆきえ)さん=当時(7)=は爆心地から約1・8キロの自宅で亡くなりました。太い梁(はり)が落ち、下敷(したじ)きになっていました。「なのに傷(きず)一つなく、眠(ねむ)っているようでした」。母と一緒に妹を抱え、近くの東練兵場へ。遺体の山に投げ入れられ、炎に包まれるのをただただ見詰(みつ)めていました。
数日後、母とともに司令部の焼け跡(あと)を訪(たず)ねました。そこに姉の上司がおり、姉の机のあった場所を教えてくれました。地面を素手で掘(ほ)ると、いくつも骨が出てきます。母は、頭蓋骨(ずがいこつ)を抱(だ)きしめて泣き崩(くず)れました。
「お母ちゃん、大丈夫よ。2人で生きていこうね」。吉田さんは母に言いました。江波(現中区)の勤務先(きんむさき)に向かった父も消息不明のまま。「私が母を支えるしかないと思いました」
家を失い、饒津神社での野宿は1カ月余り続きました。その後、母の友人に助けてもらい、納屋(なや)に身を寄せました。
母が工場で必死に働いてくれたおかげで、比治山高女を卒業できました。就職後に26歳で結婚。2人の子どもに恵まれました。被爆から60年目に「こんな家族が生きていた」ことを伝えようと思い立ち、手記をしたためました。年に数回、修学旅行生たちに体験を証言しています。
自分たちと同じ思いをする人が再び出ないように―。その願いを今夏、娘が受け継(つ)いでくれました。次女の松井早苗さん(66)=南区=が市の「家族伝承者」になったのです。原爆死した3人の生きていた証(あか)しを、共に次世代に伝えています。(新山京子)
私たち10代の感想
憎しみよりも強い思い
吉田さんは原爆を落とした米軍への憎(にく)しみを抱(いだ)いていたにもかかわらず、手記には一切書かなかったそうです。家族3人を奪(うば)われた悲しみを他の誰にも経験させてはいけない、という思いを何より伝えるべきだと考えたからです。その気持ちを直接受け取って、絶対に核は許(ゆる)せない、なくすべきだと思いました。(中1岡本龍之介)
家族愛や絆 復興の力に
「お母ちゃん、頑張(がんば)って生きようね」。吉田さんが母親にかけた言葉が印象的でした。原爆によって多くの命や大切な日常が奪(うば)われましたが、家族の愛や絆(きずな)を奪うことはできなかったのです。そんな人々によって広島の街は復興したのだ、とも思いました。私も家族や友人とのつながりを大切にしていきたいです。(高2吉田真結)
被爆して約1カ月間、自宅付近の神社で過ごされていたことが最も印象に残りました。姉と妹を亡くし、悲しみに暮れる暇もないのに、真夏の太陽の下で過ごされていたのも大きなショックを受けました。また、行方不明の父親も戻ってくるのではと希望を持ち続け、苦しい生活に耐える姿にも胸を打たれました。しかし、吉田さんが「生きるのに精一杯で、公園で暮らすことは苦だと思わなかった」と言われたのには驚きました。自分がその境遇に置かれたら、耐えられないかもしれません。吉田さんはそれほど切羽詰まった状況で過ごしていたのだと分かりました。最後に、若者に「自分の心に傷をつけず、物事を正しい目で見てほしい」と呼びかけました。世界という大きな視点で物事を考えることの大切さをあらためて認識しました。(高1新長志乃)
吉田さんが世の中の情勢を「大きな波」と例えて話されていることに、共感しました。戦争は、国同士の争いであるため、私たちのような民間人が止めることは難しいと思いがちです。しかし、私たちが高い防波堤を作ることで、大きな波を止めることができると思います。まずは、学校などの身近なところから、人に流されず、自分の意思をしっかり持って行動していくようにしたいです。そして、世の中が悪い方へ向かう大きな波が襲って来た時に、波に呑み込まれず、周りの人とともに高い防波堤が作れる力を身につけたいです。(高1山下裕子)
特に心に残ったのは、吉田さんが父親が帰ってくるかもしれないと約1ヶ月間、神社で過ごしたことです。そして、吉田さんは現在でも亡くなった家族のことをしっかり覚えていて、私達にどんな人だったか教えてくれました。とても家族の仲が良く、家族思いだったのだろうと思いました。また、吉田さんは神社で過ごした後、母親の友達が親切に住む場所を提供してくれて、移り住んだそうです。私は吉田さんの証言を聞いて、大切な家族を壊した原爆は本当に恐ろしいと思いました。これからも家族や友達を大切に生きていきたいです。(中2石井瑛美)
私が最も印象に残ったことは、吉田さんが自分の妹の遺体を焼いてもらうときに抱いた感情です。もし、私の身近な人、家族や友人が目の前で焼かれている様子を見ることになったとしたら、感情がこみ上げて耐えられなくなると思います。しかし、吉田さんは「感情を無にして焼かれているところを見た」と言われていました。戦争は人の感情までも壊してしまう、恐ろしいものだと感じました。吉田さんの被爆体験の話は、とても心に響きました。今のうちにたくさんの生の声を聞き、被爆者の思いが平和な世界の実現につながるように行動していくべきだと思います。(中2山下綾子)
吉田さんが「自分のように悲しい体験をするひとがいない平和な世界になってほしい」と願い、原子爆弾を落とした相手の悪口を言わないと話していたのは、辛いことを経験したからこその優しさだと思いました。どんなときも母親と一緒に行方不明の父親を探し、諦めずに支え合って生きてきたことに、私は衝撃を受け、最後まで諦めずにやり切ることの大切さをあらためて学ぶことができたと思います。妹さんの遺体を焼く時、「他の死体も山積みになっていた」と話していました。そのシーンを想像すると悪い意味で夢のように感じました。「一人一人が争いをしてはいけないという心を持っていてほしい」。吉田さんのこの言葉を胸にこれから積極的に行動していきたいと思います。(中1相馬吏緒)
◆孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。
(2024年9月16日朝刊掲載)