[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月17日 「助けてという声聞こえた」 大雨と強風 被爆地苦境
24年9月17日
1945年9月17日。「昭和の三大台風」に数えられる枕崎台風が、被爆6週間後の広島を襲った。大雨と強風が吹き荒れる中、当時9歳の友田典弘さん(88)=大阪府門真市=は比治山橋(現広島市中、南区)を渡っていた。「吹き飛ばされないよう金山さんのベルトを握った。金山さんも欄干を持って歩いていて怖かった」
友田さんは原爆孤児。大手町(現中区)の自宅に下宿していた朝鮮人男性の「金山三郎さん」と被爆後に再会でき、御幸橋西詰め(同)そばの2畳ほどのバラックで一緒に暮らしていた。台風を到底しのげず、壁から雨水が入り出すと、2人で比治山の麓にある金山さんの友人宅へ向かった。
全身ずぶぬれで到着後に着替えをもらった。原爆に続き自然災害にも見舞われる中、金山さんは朝鮮半島に友田さんを連れて帰るか同郷の友人と母国語で話し合った。友人の妻は友田さんに「金山さんに付いて行きなさい」と通訳した。「朝鮮がどこにあるのかも分からなかった」が付いて行くほかない。台風一過の翌18日朝、朝鮮半島に向け出発した。
広島市では最大瞬間風速45・3メートル、最大風速30・2メートルで、1時間の降水量は最大57・1ミリを観測した。かろうじて原爆による破壊を免れたインフラや建物も被災。猿猴川(現南区)にかかる大正橋は、西詰め寄りの橋桁が流失した。
「外から水が流れる音、助けてという声が聞こえた」。上柳町(現中区)の自宅で被爆した当時16歳の加藤萬喜子さん(95)=東区=は17日、家族と古市町(現安佐南区)の知人宅の蔵2階へ身を寄せていた。夜に太田川の堤防が決壊し、下流域の古市町周辺では洪水が発生。1階は浸水した。「頑丈な造りだから助かった。周囲の家は押し流されていた」
被爆者が収容されていた大野陸軍病院(現廿日市市)では土石流で156人が犠牲となった。この中には、原爆被害調査のため同病院を拠点に活動していた京都帝国大(現京都大)の調査班員11人も含まれる。広島県内の犠牲者は2千人を超えた。
気象台は17日午前10時に現在の警報に当たる「特報」を出したが、通信機能の戦後復旧が間に合わず市民に情報が十分伝わらなかった。当時、広島管区気象台(現広島地方気象台)の技術主任だった北勲さん(2001年に89歳で死去)は手記で、甚大な被害をもたらした原因を「第1は豪雨、第2は敗戦に伴う防災体制の不備と言い得る」と指摘する。
文部省学術研究会議が9月に編成した「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の気象部門の調査に従事し、枕崎台風の痕跡をカメラに収めた。「昭和20年は広島県民にとって最悪の年であった」と手記を結んだ。中国新聞も温品工場(現東区)の輪転機が浸水被害に遭い、18日付を刷った後、再び自力発行できなくなった。 (山下美波)
(2024年9月17日朝刊掲載)
友田さんは原爆孤児。大手町(現中区)の自宅に下宿していた朝鮮人男性の「金山三郎さん」と被爆後に再会でき、御幸橋西詰め(同)そばの2畳ほどのバラックで一緒に暮らしていた。台風を到底しのげず、壁から雨水が入り出すと、2人で比治山の麓にある金山さんの友人宅へ向かった。
全身ずぶぬれで到着後に着替えをもらった。原爆に続き自然災害にも見舞われる中、金山さんは朝鮮半島に友田さんを連れて帰るか同郷の友人と母国語で話し合った。友人の妻は友田さんに「金山さんに付いて行きなさい」と通訳した。「朝鮮がどこにあるのかも分からなかった」が付いて行くほかない。台風一過の翌18日朝、朝鮮半島に向け出発した。
広島市では最大瞬間風速45・3メートル、最大風速30・2メートルで、1時間の降水量は最大57・1ミリを観測した。かろうじて原爆による破壊を免れたインフラや建物も被災。猿猴川(現南区)にかかる大正橋は、西詰め寄りの橋桁が流失した。
「外から水が流れる音、助けてという声が聞こえた」。上柳町(現中区)の自宅で被爆した当時16歳の加藤萬喜子さん(95)=東区=は17日、家族と古市町(現安佐南区)の知人宅の蔵2階へ身を寄せていた。夜に太田川の堤防が決壊し、下流域の古市町周辺では洪水が発生。1階は浸水した。「頑丈な造りだから助かった。周囲の家は押し流されていた」
被爆者が収容されていた大野陸軍病院(現廿日市市)では土石流で156人が犠牲となった。この中には、原爆被害調査のため同病院を拠点に活動していた京都帝国大(現京都大)の調査班員11人も含まれる。広島県内の犠牲者は2千人を超えた。
気象台は17日午前10時に現在の警報に当たる「特報」を出したが、通信機能の戦後復旧が間に合わず市民に情報が十分伝わらなかった。当時、広島管区気象台(現広島地方気象台)の技術主任だった北勲さん(2001年に89歳で死去)は手記で、甚大な被害をもたらした原因を「第1は豪雨、第2は敗戦に伴う防災体制の不備と言い得る」と指摘する。
文部省学術研究会議が9月に編成した「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の気象部門の調査に従事し、枕崎台風の痕跡をカメラに収めた。「昭和20年は広島県民にとって最悪の年であった」と手記を結んだ。中国新聞も温品工場(現東区)の輪転機が浸水被害に遭い、18日付を刷った後、再び自力発行できなくなった。 (山下美波)
(2024年9月17日朝刊掲載)