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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月16日 犠牲続く街 再建へ動き

 1945年9月16日。広島市立中(現基町高)2年山本達也さん=当時(14)=が、草津東町(現西区)の自宅で息を引き取った。爆心地から約1・4キロの校庭で熱線にさらされ、全身に大やけどを負っていた。

 8月6日、同じ校庭で被爆した同級生の高橋昭博さん(2011年に80歳で死去)に励まされながら、火の海と化していく街から逃げた。「おかあちゃん、おかあちゃん」と泣き続けていたと高橋さんが手記に残す。

 何とか自宅に帰り着くと、母末子さんがやけどで皮膚にくっついた服をはさみで切り、薬がないためすったジャガイモで手当てした。1カ月以上にわたる必死の看病のかいもなく、山本さんは母を呼びながら逝った。

 後に原爆資料館長を務めた高橋さんは、山本さんの被爆死を手記や証言で伝え続けた。「生き残ったのだから、友人たちの分まで何かをしなければ」との思いだった。

 死者が増え続ける中でも、命をつないだ市民が街の再建に動いていた。9月16日付中国新聞は、広島文理科大(現広島大)などで授業再開の準備が進んでいると報じた。

 焦土の市中心部には、バラックが姿を見せていた。「広島原爆戦災誌」(71年刊)によれば、比較的早かった下柳町(現中区)は8月末ごろの時点で7世帯が焼け跡に居住。当初は焼けたトタンで屋根を造り、拾ったござやトタンを地面に敷いて住んだ。被爆1カ月ほどすると、焼け残った木や瓦を集めて屋根をふき、床も張った。

 ただ、苦労して建てたバラックを破壊する、猛烈な台風が近づいていた。(編集委員・水川恭輔)

(2024年9月16日朝刊掲載)

焼け跡に建てられたバラック小屋

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