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[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月15日 確証なき息子の遺骨

 1945年9月15日。当時34歳の宮地臣子(とみこ)さんは、爆心地近くでの動員に出て行方が分からなくなった一人息子の伸和さん=当時(12)=を見つけられずにいた。

 広島二中(現広島市西区の観音高)1年で、8月6日は中島新町(現中区)で建物疎開作業を命じられていた。珍しく「今日は休みたい」と言うわが子を「元気を出して行きなさい」と送り出した後、原爆がさく裂した。

 宮地さんは、中広本町(現西区)の自宅の下敷きになり、夫に助けられた。ガラスが刺さった顔が腫れ上がって目もよく見えないのを押して伸和さんを捜し歩いた。やがて高熱が出て震えが止まらなくなり、10日に市内を離れ、夫の郷里の因島(現尾道市)で療養を余儀なくされた。

 9月1日に広島市に戻って多くの負傷者が運ばれた似島などを回ったが見つからず、焼け残った市役所を15日に訪ねた。行方不明者の相談係を設けるとともに死傷者名簿を公開し、詳しい身元や遺族が分からない遺骨を引き渡していたからだ。

 宮地さんは、その日の記憶を後に「原爆の絵」に描いている。似島の収容者名簿の中に一人「不明二中一年生」とあるのを見つけ、「多分コレカモ知レナイト思ヒ一握ノ骨ヲ箱ノ中カラモラヒ ヨゴレタハンカチニツツンダ」(絵の説明文)

 しかし、わが子と確かめられたわけではなかった。「コノ大キナ脊骨ハ子供ノデハナイトオモフト、涙ガアフレタ」

 戦後は、夫と因島で暮らした。二中慰霊祭に参列を続け、高齢でかなわなくなると「線香代」を送った。「不幸なあわれな死に方をした子供を、両親の命のある限りいつまでも誰にも邪魔されずに思い続けてやりたい」(手記)。2014年、103歳で亡くなった。(編集委員・水川恭輔)

(2024年9月15日朝刊掲載)

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