[ヒロシマドキュメント 1945年] 9月中旬 物理学研究拠点は大破
24年9月14日
1945年9月中旬。爆心地から約1・6キロ南東の広島文理科大(現広島大)の廃虚に「理論物理学研究所(理論研)」の門柱が残っていた。44年に設けられた組織。竹原市出身の理論物理学者、三村剛昴(よしたか)博士(65年に67歳で死去)が所長として先駆的研究を率いていた。
37年に同大教授に就き、量子力学と相対性理論を融合する波動幾何学で国内外から注目された三村博士。中国新聞の45年2月3日付紙面に地元の専門家として「原子爆弾」への見解が載った。
当時、米英などの連合国にドイツや日本が勝つために科学に着目する記事が全国紙などに出ていた。「科学戦」をテーマに本紙が座談会を開いて原爆について問い、三村博士は一般論として「最近、原子爆弾が人気の焦点になってゐるやうだが、あれは希望的観測に過ぎぬ。実現はなかなか困難だらうよ」と答えた。ただ、「原子は猛烈な破壊力のエネルギーをもってゐる」と加えた。
その約半年後、米軍は広島に原爆を投下。理論研が入る建物は倒壊し、全焼した。教職員3人が犠牲となり、三村博士も頭を負傷した。
三村博士たちはすぐに原爆の可能性を考え、真相を調べる調査要領をまとめた。だが、「研究所員ノ死亡者、重傷者少カラズ、ソノ善後処置ニ追ハレ、殆(ほと)ンド余暇ナキ為(ため)、本研究室トシテハ極メテ僅(わず)カノ調査ヲナシ得タルニ過ギザルハ遺憾ナリ」(45年8月の報告書)。
被爆1カ月を過ぎても放射線障害は収束が見えず、爆風や熱線も含めた実態把握には、多くの学術分野の知見が必要だった。文部省の学術研究会議は9月14日、「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設立。日本側の学術調査が本格的に動き出す。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月14日朝刊掲載)
広島文理科大学理論物理学研究所(教育博物館)の門柱
37年に同大教授に就き、量子力学と相対性理論を融合する波動幾何学で国内外から注目された三村博士。中国新聞の45年2月3日付紙面に地元の専門家として「原子爆弾」への見解が載った。
当時、米英などの連合国にドイツや日本が勝つために科学に着目する記事が全国紙などに出ていた。「科学戦」をテーマに本紙が座談会を開いて原爆について問い、三村博士は一般論として「最近、原子爆弾が人気の焦点になってゐるやうだが、あれは希望的観測に過ぎぬ。実現はなかなか困難だらうよ」と答えた。ただ、「原子は猛烈な破壊力のエネルギーをもってゐる」と加えた。
その約半年後、米軍は広島に原爆を投下。理論研が入る建物は倒壊し、全焼した。教職員3人が犠牲となり、三村博士も頭を負傷した。
三村博士たちはすぐに原爆の可能性を考え、真相を調べる調査要領をまとめた。だが、「研究所員ノ死亡者、重傷者少カラズ、ソノ善後処置ニ追ハレ、殆(ほと)ンド余暇ナキ為(ため)、本研究室トシテハ極メテ僅(わず)カノ調査ヲナシ得タルニ過ギザルハ遺憾ナリ」(45年8月の報告書)。
被爆1カ月を過ぎても放射線障害は収束が見えず、爆風や熱線も含めた実態把握には、多くの学術分野の知見が必要だった。文部省の学術研究会議は9月14日、「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設立。日本側の学術調査が本格的に動き出す。(編集委員・水川恭輔)
(2024年9月14日朝刊掲載)
広島文理科大学理論物理学研究所(教育博物館)の門柱